奇跡と科学
 
 
キリストの誕生と復活の奇跡
もちろん理性では理解できない
 
処女懐妊も肉体の復活もなかった
というのが正しいか
 
では科学的でないことを
信じないことが正しいか
 
いや、あった・・と思い込み
信じ込むのが正しいか
 
では思い込みの強い人が
信仰の厚い人だろうか
 
どちらかだと言い張ることではなく
分からないと言うべきことではないのか
 
処女懐妊も肉体の復活も
あったと思い込み
硬直して譲らない姿勢は
神の秘義を
人の思いで把握できると言い張る不遜である
 
どうして起こったのかは
神の業だから理解できないが
起こったと書いてあるから起こったのだ
と信じ込むのか
 
どうして聖書に書いてあることに
すべて分かったかのように
結論を出さないと気が済まないのか
 
神の業について
起こったと信じ込むことは
神が分からせてくださるのを待たないで
人が人の意気のみで
あらゆる出来事を
ありがたがることであり
それは生きた情緒を失っている表れだ
 
奇跡よりも
失望のほうが多いこの地上にあって
奇跡を信じることで
何が救われるだろうか
どうして奇跡があったと思い込むだけで
感動できると言うのだろうか
 
自由への解放もないまま
遠い奇跡に感動したと言うのは
感動しなけらばならないという強迫観念であり
感動と感謝の気持ちを捏造することになり
人が情感も反発力も弾力も失って
信仰を
感動のない硬い物質に変えてしまうだろう
 
神は
人が全能ではないことをご存知である
神は
人の言葉の限界もご存知である
神は
人の言葉が表現において
正確ではないことをご存知である
 
神は
全能ではない人が
どちらかに決めつけることを
義とされるだろうか
 
神は
全能ではない人が
分からないと言うことを
不義とされるだろうか
 
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
9:41
イエスは彼らに言われた、
「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。
しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、
あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 
 
※ 
 
奇跡は
起こるとすれば神の業であるが
起こると決めつけるのは人の信仰不全であり
また
起こらないと決めるのは人の不全の知恵である
 
神は奇跡を起こされたのだと言えば
神の行為を人が決めつけることになり
奇跡などなかったと言えば
人の能力を過信することになるだろう
 
 
(2016年04月02日、同日一部修正)
 
業(わざ)
捏造(ねつぞう)