不信仰は
 
 
「信仰」に「不」を付けて
不信仰と言えば
信仰を否定しているように見えるかもしれないが
 
不信仰は
「不」を付ける前の
信仰の存在を認めている
 
自分のことを
正直に不信仰と言うとき
信仰を意識している
 
信仰を意識して
自分を語ることは
信仰者に特有のことであって
信仰がないのではなく
自分は信仰が足りないのです
と言っている
つまり
信仰を持つ人の言葉である
 
少なくとも
信仰を肯定する言葉ばかりを並べて
自らの信仰を誇り他者の信仰を貶めて
悪意をもって
聖なる御方の名をみだりに唱える者より
へりくだっている分だけ
信仰は本物だろう
 
少なくとも
自己正当化のために
あれやこれやと聖句を漁り
少しでも自分に有利な聖句を並べて
文句あるかと得意げに人に見せる者より
信仰は本物だろう
 
信仰があるから
不信仰を意識する
 
信仰があるから
信仰者らしくない自分を意識する
 
キリストに信仰を認められ
義とされた者はそういう人が多い
 
不信仰は
信仰と同値だという理由だ
何故なら
人の信仰は必ず不全感を伴うからだ
 
信仰は必ず不信仰を伴う
 
不信仰を伴わない信仰は
少なくともキリスト信仰ではない
 
 
不信仰告白は
信仰告白と言ってよい
 
 
※ 今までに引用してきた聖句だが、まとめておきます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 15:27すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 15:28そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:26-28、新約聖書)
 
不信仰のキーワードは、キリストが言った「(神の)子供たち」に対して、女性が自らを語るために言った「小犬」と「パンくず」である。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
23:41お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。23:42そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。 23:43イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
 (ルカ23:41-43、新約聖書)
 
不信仰のキーワードは、「こうなったのは当然だ」。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
8:3すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 8:4「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 8:5モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 8:6彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 8:7彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
 (ヨハネ書8:3-7、新約聖書)
 
不信仰のキーワードは、姦淫の罪を犯した女性が、何も言わず引き出されていること、そして自己正当化も言い訳もしていない・・という話だということである。
 
 
不信仰の自覚は、自分を自ら低いと認めることに、へりくだることに、謙虚であり謙遜であり敬虔であることに、低いがゆえに嘘をつかないことに、低いがゆえに自己保身の偽善に走らないことに、通じることである。これはキリスト信仰に不可欠で、救いに与るのには必要十分なことである。
 
上にあげた、異邦人の女性が、磔刑の犯罪人が、姦淫の女性が、聖書に通じていたとは思えない。これらの人々が、キリストをよく理解していたとも思えない。彼らは、ただ救い主の前で自らが低いということを認めた、あるいは、認めざるを得なかった人たちなのだ。
 
救いの筋書きである超常を含む教理が、それだけでは、いかに空しいかを知るべきであろう。
 
 
(2016年04月17日)
 
漁る(あさる)
伴う(ともなう)
与る(あずかる)