奇跡とは
 
 
人間が
超常の神を受け入れがたいのは
人間が
超常を理解できないからだ
 
幸いなことに私たちは
超常を受け入れるのではなく
今の自分に迫っている問題について
自分の恥と罪をキリストの前に隠さず
さらけ出す人たちが救われるのを
聖書を通じて知っている
 
処女懐妊や肉体の復活などの
奇跡を信じ込まなければ
信仰ではないという者は
事実かどうか知りようのないことを
事実として受け入れることを要求する
それこそ有無の
当たり前のように要求する
 
人間が
超常を考えて
超常を受け入れて何になるだろう
 
超常のことのは神が考える
というより
神のみが考え支配している
それが
人によって整えられることはない
 
それを整っているかのように
言い張って止まない者は
人間が整えなければならないことを
疎かにしてゆくだろう
 
整えたつもりで壊してゆく
 
神が人間に
恵みや問題や試練を与えるのは
人間が共感できることに
共感できる神だからだ
 
与えられても人間には無理で
共感もないようなことを
分かっていますと神に捧げたつもりで
人をけがす者に惑わされないでほしい
 
今の自分に迫っている問題について
自分の恥と罪をキリストの前に隠さず
さらけ出す人たちが救われるのを
聖書は語っている
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18408774.html
 
 
※ 
 
信じても
信仰によって高ぶるなら
それは信仰とは呼べないだろう
 
信じる者は救われる
ではなくて
低き者は
魂の砕かれた者は救われる
ということかもしれない・・
 
 
(2016年04月28日、同日一部修正)
 
疎か(おろそか)
 
 
   衰弱 (旧作再録)
 
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
(96年、またはそれ以前、再録)
 
 
私たちが祈るべきは
 
奇跡を起こされる神を信じて讃美します
 
ではなく、
 
神のなさる奇跡や超常を
人間であるために理解できず
信じることの出来ない私たちをお赦しください
 
ではないのか
 
・・それが信仰ではないのか・・
 
 
(2016年04月28日)