その名は不安から
その名は不思議
不安から平安への招待
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27480820.html#27480820
の未承認コメント。一部、語句の適不適などで、若干編集してます。
シャロム氏は、聖句と、信仰の美辞麗句を並べることが、信仰だと思っているようです。それだけは、これでもかと、牧師だから出来るというわけです。事実の経過を知っている者としては、そういう記事を見れば見るだけ、彼の白々しさが明らかになるのですが・・。今回は、前から似たようなことではありましたが、彼の放つ聖書語が、彼を斬っている有様です。
小細工で批判があることを隠すという偽善を行いながら、記事では福音すなわち信仰の善き訪れをやさしく語ることが、いかなる根拠なのか、できると思っていて、乖離による離れ技をやってのけている人です。
以下、コメント欄(未承認コメント)
私は、いくら悪人と呼ばれてもいい。あなたが、善なるキリスト者と呼ばれることがあってはならない。
>彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。
今起こっていることは、あなたが偽善に走ったことから始まっている。それは、事実を知る者にとって、必然である。神の裁きを、人がいかに知らないで生きているか、という実状でもある。自己中心の正義に嵌ってしまった者は、全ての忠告も批判も、悪に見えるのである。
>人々はそのおこないが悪いために、
>光よりもやみの方を愛したことである
まさに、あなたのことである。
>悪を行っている者はみな光を憎む
まさに、あなたのことである。
>そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない
まさに、あなたのことである。
こんなにもぴったりと当てはまるのに、本人だけがそれを知らない。
>神との良い関係に生きる者は、たとえ思わぬ出来事に見舞われても、
>罪に縛られた運命論などに陥ることなく、
>神の愛の中に希望と平安を受け取っているのです
神との良い関係を捨ててしまった者は、たとえ思わぬ出来事に見舞われても、
罪を知るべき新約など意にも介さず、狡猾な蛇の穴に陥って、
蛇しかいない洞窟の中に、策謀と蔽目だけを自らめぐらしているのです。
>神と人の関係がイエスの十字架の死とよみがえりによって回復されてはじめて
>神を見失った人の心の不安は神からの平安と回復され、
>人と人、人と自然との関係も回復されるのです。
まさに、あなたが出来ないでいることである。
あなたが聖書を自分のいいように解釈して、自分が何をしようと救われ、罪などない、という、自分中心の軸を作ってしまう無罪信仰に陥って、神と人、人と人、の関係を台無しにしたので、自己の正当を主張して、多数を欺こうとしても、その言葉が逆に、あなたの暴虐ぶりを表すという悪の蟻地獄に、あなたは気づかぬうちに、嵌って、それを信仰の平安だと、うそぶいている。
回復されるべき関係が、あなたにおいては、相手のお世辞と頷きによらなけらば満足できないことによって、集まる人にも社交の気遣いしか出来ず、本当の付き合いなど出来たことはなく、しかも、あろうことか、その偽りの付き合いに満足するようになり、その偽りがそのまま、あなたの、自分をよく見せるために、反対意見を削除、または、隠蔽する、という偽善に表れ、それをさらに隠蔽しながら、悔いることのない僻みと敵意の信仰が、神の御前に明らかになってゆく。全能の神は、まさに、見ておられる。
まさに、あなたの言うことが、まだ終わらない、あなたの地獄を語っている。
すべての言い訳は、神が先んじて、すでに、ご存知である。あなたは、神を見くびった。また一つ、日ごとに、あなたの罪と偽善が、積まれてゆく。
隠されたものが、明らかになる日を、あなたは恐れないのか。
私は、いくら悪人と呼ばれてもいい。あなたが、善なるキリスト者と呼ばれることがあってはならない。
あなたのような的外れに対しては、私は持てる力を尽くさねばならない。キリストは、暴力の主ではなかったが、パリサイ人を批判するとき、決して手加減はなさらなかった。私の持てる力とは、信仰による信仰の言論である。私は非力だが、私が潰えても、終わらない。あなたは、とんでもない御方を敵としているからだ。信仰の残された情熱は、キリストを望む情熱である。人間としての自分を犠牲にして悔いないところの情熱である。これは、あなたのセメントで固めたような信条とは違い、キリストによって培われた信仰の情感という人間性によらなければ、あり得ないものである。あなたは、信仰を取り違えた。あなたは、人間性を取り違えた。あなたは奇跡を取り違えた。人を人間にする人間性は、まさに、人でなしを人間に育てる奇跡であり、人間にとって、これ以上の奇跡はないのである。
あなたにとって、個人と信仰は、人それぞれという詭弁だから、いっしょかもしれないが、個人が自分をよく見せるために、あるとき言ってしまった嘘とは決定的に違います。信仰というテーマは、誰が何を言っても、公の義、という公共性を持つのです。個人の秘密や嘘と、並列して考えることは決して出来ません。
(2016年05月27日、同日一部修正)
嵌る(はまる)
頷き(うなずき)
隠蔽(いんぺい)
僻み(ひがみ)
蔽目(へいもく)
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