語るには
 
 
聖書から語れることは多いだろう
しかしそれは
「かもしれない」という思いであり
決定事項ではなく
人が考えた推測に過ぎない
 
神の絶対の言葉として
教えられるかもしれないが
神の絶対は地上の言葉では語れない
 
神が施した神事も
人は人の世界の人事としてしか受け取れない
 
私たちが聖書から
また信仰生活の経験から語れるのは
神の力と恵みと試練と導きから
人の世界が受け取ることの解釈であり
人事を超えるものではない
 
私たちは
神の聖なる領域を
正確に語れる能力も言葉も持たない
 
神がどのように導き
どのような奇跡を与えたか
正確に語ることは人には出来ない
 
私たちは
ただそっと差し出すように
人の信仰の思いを語るのである
 
驚くべきことが起きたと
もし語りたいなら
「ひょっとしたら・・かもしれない」
といった推測や
考察や仮説を語ることは出来るが
 
「かもしれない」
と書いたように人には
神を確信を持って具体的に語れる言葉はない
 
驚くべきことを
奇跡と断定した途端
人は自ら
神を理解できる
という傲慢を纏うことになる
 
神の意志と行為を
人が確定して語るのは罪であり
神が分かる・・の延長は
これが神の意志だと言うことで
罪だけでなく偽善やカルトに
結び付きやすいことを知るべきだろう
 
人事を超えてはいけない
 
折に触れて自ら戒めるべきである
 
神の名をみだりに唱えてはならない
 
一方例えば
聖書の解釈について
宗教と信仰の諸問題について
信仰生活や信仰者の規範について
語りたい人は
語ってよいというより
語り合うべきだと思う
 
神聖を思い
信仰を語り合い
人間性が事を判断してゆく
 
結果が良くても悪くても
その経過は祈りとともに
神の御前に捧げるべき日々の収穫である
 
 
(2016年05月28日)
 
人事(じんじ)
途端(とたん)
傲慢(ごうまん)
纏う(まとう)
規範(きはん)