今日のは、批判ですが、激しくて、恥ずかしい気持ちもあります、・・
 
 
  その名は真の過ち
 
 
信仰という公の義に関することを語るのに、まるで個人の日常を語るように、都合の悪いことは隠して、都合の悪い意見は封殺して、悔いることなく改めることなく、現在も信仰している者が、反原発の記事を書いているのです。
原発事故について、どこかに書いてあることと、聖書さえも、高めるために利用して、正義の立場から、ありがたい神託として語り、人間の立場を失っている者が、悦に入って書いています。
 
「」は聖句です。最初のほうは、言い換えが多いです。
  
「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、
 神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである」
 
滅びの縄目にがんじがらめにされて
神の栄光の自由に入る望みを自ら捨てる者がいます。
 
「被造物全体が、今に至るまで、
 共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、
 わたしたちは知っている」
 
生みの苦しみを自覚せず、不快な苦しみから逃れるために
祈ることよりも、偽善で整えることを自ら強行して、
ともに苦しむことをやめ、それを信仰だと言っている者がいます。
 
「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、
 心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること」
 
心のうちに、ほくそ笑みながら、
苦しまぬことを、企みによって受けているのです。
 
「わたしたちは、この望みによって救われているのである」
 
望みによって救われている・・つまり信仰は望みであります。
しかし、望むことではなく、祈ることでもなく、
完成しているかのごとく、完成した自分がいるかのごとく、
天に向かって慢心した者によって、この記事は書かれているのです。
 
「目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、
 どうして、なお望む人があろうか」
 
目に見える偽善の効果に満悦して、悔い改めることなく、
現に見ていることを、なお望んでいる者が、この聖句を引用しています。
 
「わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、
 それを待ち望むのである」
 
聖句に反して、待ち望む忍耐もなく、手にしているかのように語っているのです。
罪を認めない立場から、教えてあげると・・。
 
>正に人間は罪を犯し、禁断の木の実を取って食べ、善悪の物差しを
>作り替えてしまったのです
 
ブログを、そして人と社会を
自分だけの偽善の善悪の物差しで測っている者がいます。
 
>「核エネルギーの平和利用」という美名のもとに、
>人類はパンドラの箱を開け、手を付けてはならない核に触れ、
>何億年も前の不安定な時代に時計の針を戻してしまった
 
信仰者なら分かるはずの、あからさまな悪の箱を、
自ら悦んで開いては他者を計り謀り、他者を笑いながら、
二千年前の奇跡にしがみついているから本物だと高ぶって
偽善という最も重い罪を犯し続けているのです。
 
>外見は美しくとも、内側は嫌悪すべき死臭で満ちているのです
 
既に偽善を知っている人には、内から死臭は漂い、
毎日を死よりも忌むべき、生きながらに滅びる
という祭壇に捧げているのです。
 
>“過ち”はだれが犯し、“過ち”とはなにかという問いに向き合うことがなければ、
>かならず、“過ち”は避けることができずに、繰り返されるのです。
 
まず、当たり前のことであるということ・・。
さらに、そう言っている本人の矛盾を
事実を知っている者としては明らかにしたいのです。
 
過ちは誰が犯したか、過ちとは何か以前に
偽善とは何か、偽善者は誰か、という疑問に対して
目を瞑り続けているのです。それが平安だというのです。
 
>罪への誘惑は常に人の心にささやきかけてきます
 
誘惑に、はいはい、と従っている日常を過ごしていることに、
保身を信仰と同一視しているために気づかすにいるのです。
 
「主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、
 わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」」
 
どこにいるのか、という神に対して、
罪も偽善も、人前に隠したように、
隠すことが出来るし、それをも神は赦して不動の安心と平安を与えてくれる
という、自分の都合に神を合わせる信仰なのです。
 
>“過ち”はだれが犯し、“過ち”とはなにかという問いに向き合うことがなければ、
>かならず、“過ち”は避けることができずに、繰り返されるのです。
 
まさに、繰り返されているのです。罪のことを他人事として
語っている場合ではないことを知らないのです。
こういうことだから、ネトウヨの人にさえ、
悪から自分を除外していることを見抜かれて一言も返せないのです。
 
>「あなたはどこにいるのか」。
>この問いに人は向き合うことなしには、
>真の過ちに決して気づき、向き合うことが出来ないのです。
 
自分の胸中深く闇の中に建てた神殿に収まっているだけなのです。
他者の言うことを聞く耳も心も失って・・。だから
書くこと書くことが皆、他者の悪であって、
自分を悪からも罪からも除外して、罪悪感もないのです。
 
>私たちはすでに、イエスによって
>“過ち”の正体がなにかを知り、自らの責任であることを知らされているのです。
>さらに、神ご自身がイエスにおいて、人の呻きをご自分の呻きとして、
>人の責任をご自分の責任として引き受け、十字架の血によって、
>救われたことを知らされているのです。
 
ここに、信仰は望むことによって救われること
という聖句に矛盾して、
救われた、という過去完了形に持ってきて、
自分の完全を信じる信仰の体質が明らかになるのです。
 
過ちが、自らの責任であることを認めながら、
それをキリストがご自分の呻きとして負った、
言い換えると、人つまり自分の過ちをキリストが負って
キリストが代わりに十字架についたから、救われた、
つまり、自分は責められることはない、
自分が自分の過ちについて何もしなくていい
ということに結論付けているのです。
既に救われたことを知らされていると。
自分の罪と偽善の言い訳のために
主なる神の業を引き合いに出して語っているのです。
 
救いは、何もしなくていいとか、何をしてもいいとか、
そういった意味ではないと私は思っているのですが・・。
 
私たちキリスト者は
確かに罪を赦されるための約束を得ています。
それはキリストの負いやすい軛です。
しかしキリストの軛なのです。
私たちは折に触れて反省し祈りのうちに
罪を悔いて告白し
飼い主である主なる神への態度を
その都度に新しく改めて成長するべきではないのでしょうか。
 
 
原子力という社会問題に託けて、単純過ぎる因果を並べて、
そういうことさえも自分の正当化の言い訳にしようとしています。
ここまで詭弁を弄してしまう人が信仰者の中にいる
ということを覚えてください。信仰そのものを捻じ曲げて
悪用して、自分の過ちつまり罪そして偽善の言い訳にしている。
 
真の救いは神によって完全に成就されるのがキリスト信仰です。
人は、待ち望むことによって生かされてゆきます。
 
今、完全に救われていないことは、人間なら、
この世の有り様を見れば明らかなのです。
 
その者は、自分に罪はないと思い込んでいるようです。
その者にとって、過ちは、罪は、過去完了形なのです。
今の自分が罪を犯すことなど、考えていないのです。
 
>私たちは自然と人のすべての呻きの背後から聞こえる
>神の呻きを聴きとり、執り成し手として召されているようです。
 
神の呻きを聞いて、この者が、神を取り成すのだそうです。
 
>御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである
 
そのための聖霊、という、議論不要というために
いつも取ってきた手段を露骨に振り回してきます。
 
私は、罪も偽善も認めており、罪びととして、悔い、祈り、神に対する態度を、折々に、新鮮な信仰として改めようとしている。どんなに罪深いキリスト者も、最低限、これらのことは日々、行っている。それがキリスト者だからだ。
 
前に、私を病気ということにして、その者が、気持ちの悪い、自分を見つめたほうがいい、という忠告をしたとき、最初の気づきがありました。アドバイザーは、依頼があって相談にのり、かつ、病気の話に進んで双方の了解が整ったと判断される状況でない限り、病気のアドバイスをしたりはしない。また、自分を見つめたほうがいいと言うだけで済ませることもない。また私を病気だと見なす理由は、私がしつこくコメントを書いたから、というだけで、根拠にはなりません。その辺に、あなたの立ち位置が示されていたのです。依存についても、甘えとかを、その者が何かよくないことだというようなことを言っていたけれど、ふつうは、相手を依存の甘えのという前に、そうさせた自らの失敗を振り返ります。
 
あなたの欠格は、相談相手、そして、説教者、さらに、言論する信仰者、という範囲に及んでいます。いくら言っても聞こうとしない内省の欠如したあなたを反面教師として、私のほうは、自分を至らなさを書くことも多くなり、そのことで、新しい気づきのようなものに与ったような気もしています。あなたが全く興味を抱かないところで、信仰の世界は見出されてゆくでしょう。
 
 
人間だから、仮想として、あなたに、申し上げる。
 
あなたはどこにいるのか。
 
あなたは何を隠しているのか。 
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27486860.html
 
この神からの問いかけの言葉は、この地上に住む総ての人に、
人が思う以上に、しばしば投げかけられていると思う。
 
 
私のような者でも、自分の至らなさは、ブログのあちこちに書いています。あなたのように、どんなことが起こっても、それを自分のせいにだけはしない、というのは、罪悪感を感じることが出来ないサイコパスの特徴です。この根拠は、約5年間に及ぶ断続的な付き合いでの、あなたが発した言葉に見られる自己中心と反省欠如などから来ています。あなたは、いつも、人の罪について書きながら、自分の罪について考えたことがない。そして、信仰者は、罪を犯して、赦しを乞い、祈り、悔い、改める日々であるのに、あなたの話は、救われ話ばかりだ。あなたによって、信仰とは正反対の、救われて罪がなくなる妄想の世界に、誘われる人がないように、祈りながら、批判記事を書いています。私の命の何倍も費やしても、それは届かないだろう。しかし、あなたの記事を目の前にして、私という信仰者は、書かないではおれないということです。結果は神に任せて、それを私の晩年の命尽きるまでの使命とします。私はブログでは、あまり祈りの文言を書くほうではありませんが、今日は、試しに書いておきます。
 
 神様、私は、その時その時に
  私が正しいと思っていることをもって
  人間なら、キリスト者なら、おかしいと思うことについて
  神に対する態度を正すべきだと思って
  間違っていると思う一人の相手を批判してきました
  また不特定多数の信仰者に対しても
  現状に対する批判めいたことを書いてきました
  
  もし批判対象である彼の言う信仰が正しくて、
  私の信仰が間違っているなら
  私はキリスト信仰に向いていないばかりでなく
  キリスト信仰にとっても、キリスト者にとっても
  百害あって一利なく、邪魔になるだけでしょう
  
  だとすれば
  私が訴えている信仰も批判も意味が無く
  私は人間として生きることにも向いていない
  ということになります
  
  ですから、もし
  彼の信仰が正しいならば
  私は彼の言う信仰の世界にも
  彼の言う人間の世界にも
  彼の言う天国にも
  行きたいという気持ちすら持ち得ないでしょう
  
  だとすれば私は
  人を惑わせるだけの背教者ですから
  最後の憐れみを下さるなら
  速やかに私を逝かせてください
  この世から私を取り除いてください
  この世にいればいるだけ私は不幸ですし
  主よ、あなたに逆らうだけなのでしょうから
  
  もしそうでなく私に救いの可能性がまだあるなら
  40年余にわたって希死念慮のある私が
  自殺しそうになったときには止めてください
  そしてどうか赦しと癒しと導きを必要なときにお与えください
  そして折に触れて反省の機会をもお与えください
  
  残り少ない私の命のために
  そして
  病んでいる母の助けに私がなれますように
  
 主イエス・キリストの御名によって祈ります
 アーメン
 
 
(2016年06月01日)
 
文中の
「その者」=批判対象=「彼」=「あなた(神を表す場合を除く)」
 
瞑る(つぶる、つむる)
託ける(かこつける)
呻く(うめく)
軛(くびき)
与る(あずかる)
速やかに(すみやかに)