その名は恵みを騙る
 
 
彼(=シャロム=あなた)の偽善に対する私の批判は
だんだん緊急度を増してきているようです。
彼の言い分は、益々カルトの自分絶対信仰らしくなっています。
 
私は45年前、洗礼をうけたが、
5年前、彼のような嘘つきに対しては、
へりくだることを捨てた・・。
 
 
 (詩篇、口語訳)
11:5
主は正しき者をも、悪しき者をも調べ、
そのみ心は乱暴を好む者を憎まれる。
11:6
主は悪しき者の上に炭火と硫黄とを降らせられる。
燃える風は彼らがその杯にうくべきものである。
11:7
主は正しくいまして、
正しい事を愛されるからである。
直き者は主のみ顔を仰ぎ見るであろう。
 (詩篇11:5-7、旧約聖書)
 
 
私は言論を手段とし、彼は強制力を使っている。
 
彼は、不正直で、偽善を認めないし、
彼は、全く悔い改める気がない。
 
何をしても救われると汚点なしと
思い込んで自らの平安を誇り続け、
いい気になって広めようとさえしている。
何をしても救われるという安い信仰なら
信じる必要がどこにあるだろう。
それは信仰告白だと言うならば
早い者勝ちで救いが決まるとでも言うのか。
 
自分は
他のキリスト者よりも特別に選ばれた
という優越意識に気づかないのか。
内実は全く伴っていないのに。
 
キリスト者の、そして人間の
平等意識さえ捨ててしまったのか。
 
 
 (詩篇、口語訳)
11:2
見よ、悪しき者は、暗やみで、
心の直き者を射ようと弓を張り、
弦に矢をつがえている
 (詩篇11:2、旧約聖書)
 
 
今日も前の記事のコピペで弓矢を繕い
放ってくるようです。
神からの啓示だと、言うには言うが、
神からの啓示だから、人の言うことは聞かない、
聞く必要もない、という信仰なのです・・。
キリスト信仰は沈黙の宗教ではありません。
またキリスト者は、そして人間は、
シャロムの言うことだけを聞いて頷くような
度外れた愚か者でもありません。
 
神は私たちの愚かさをご存知ですが、
それは神を信じるがゆえの低さと弱さであり
 
独りだけ特別扱いのように慎みのない口が
罪と偽善を犯してもしゃあしゃあとしゃべり続けるような
思い上がりの愚かさではありません。
 
コピペで前の記事を貼り付けた記事・・
聖霊体験で神の啓示を語ると前から言っているが
彼の信仰の啓示が成就したためしはない。
やたら自分に都合が良いだけではないか。
だから、やたら讃美している。
 
言論では、悪口や当てつけしか返せなかった。
共感など要らないと宣う。
ならば何故、それを人に伝えようとするのか。
ブログに書けば、神の奇跡の導きがあって、
記事に頷き、プロトコルのように信者になると言うのか。
人間性を無視するなら、人間に影響してはならない。
人間よりも啓示によって高く聖化されたなら、
納得できる解説をするべきなのに
批判に何も答えられなくて、
コメントを毎日削除して、
私の意見を、見たら消して、見たら消して、
知らぬふりで、平気で語れる啓示など
誰が正当に信じると言うのか。
 
あなたを信じる者がいたら、
それは犠牲者ではないか。
 
レギオンを率いたいのか。
崖に向かって突進したいのか。
 
 
>誰かに嫌われ、敵意をもたれて、日々暗い思いをさせられることがありますか
 
誰かを嫌い、敵意をもって、黒い侮りを向けたことを書かないのですね。
 
裁きを行うのは、神である。
嫌われて敵意を、何故、持たれたのか、考えない者よ。
卑怯な強制力ばかり使って、何も言えない者よ。
 
>その相手に自分も同じように敵意をもつなら、
>神に従う人としては失格者となったでしょう
 
あなたは、容易に人を病気と見なして侮辱したが、
それは、敵意ではないと言うのか。
あなたの言葉には、いつも当てつけと悪意と敵意がある
ということを私は知っている。
あなたは、「私たち」と呼べないほど、特別に失格である。
二度と、罪の話を書くときに「私たちは」などと書くな。
あなたは・・・違うのだ。
 
>今、その思いをあなたの十字架にもっていきます。
>その人のことをすべてあなたにゆだねます。あなただけが正しい方です
 
これが偽善者のやり方で、
コメントに答えられないから邪魔になって削除して
あとは神に委ねるという綺麗ごとで済ませようとする。
邪魔者は消せ、と善人が言うだろうか。
邪魔者を消す、というのは悪人の台詞だが
あなたは、いったいどこが正しいのか。
 
>自分が正しく、相手が間違っていると思えば、
>私たちはふつう間違っていることを指摘したり、
>さばいたりします。そんな自分が間違っている
>・・罪人とは思いもつかないものですね。
 
あとに暗に「えっへっへ(うす暗い笑い)」が
付いてきそうな言い方。
彼がこういう丁寧語で当てつけるたびに虫酸が走る・・。
こういう丁寧な言い回しは、ずっと彼の特徴だが、
慇懃無礼の小汚い丁寧語と私は呼んでいて
陰湿な罵詈雑言相当である。
 
「殴られるより悪いことがある」
(三島由紀夫原作映画「午後の曳航」より)
 
ゆえにこれは、明らかに攻撃だが、
普通するレスを、あなたも何度かしようとして、そのたびに
指摘と言説の不備の指摘によって跳ね返されたではないか。
 
このような、嫌らしい言い方が、あなたの当てつけだ。
「(相手は=私は)思いもつかないものですね」
このような当てつけしか出来ないことが、
あなたが、自分の罪に思いもつかないことを証明している。
 
私は主の赦し以外に救いの可能性を持たない罪人です。
 
罪人としての自覚を持たない者を批判しているが、
批判する動機が、毎日、増えるばかりで
減ることがないので、続けるしかないのです。
 
返すことは出来ないのに、
前にも言って、返されたことを、また言ってくるのも、
彼が批判者のコメントも記事も読まないことの特徴だ。
 
あなたが書いていることは、
クリスチャンが
日々の出来事と信仰と祈りを書く信仰日記とは違う。
まるで信仰の奥義でも教えているような書きぶりだから、
その教えが成っていないなら一大事であり
信仰は気軽に好き勝手なこととして
公表してよいことではない。最低限の公共性があるからだ。
 
信仰という公義ついて人間同士の合意のために
できれば議論と、批判と批判の許容と、
また少なくとも何らかの双方向は必要なのです。
批判禁忌としてきたのはキリスト教会の瑕疵であります。
批判禁忌を言い続けるのは彼の偽善の企みであります。
批判されると何も言えなくなるからです。
彼から、はぐらかしや当てつけ以外の、
納得のいく説明を聞いたことがありません。
詭弁で人々を欺き騙し、自らの優位を得ようとしている。
 
>「心のまっすぐな人」ということは
>自分の正しさによって生きるのではなく、
>主の恵みの業に信頼する人なのですね
 
この「ですね」の詭弁に騙されてはいけません。
強制力を用いて自尊の利益を図り、
自分の小手先で有利な状況を作ろうとする者が、
どうして主の恵みのわざに信頼していると言えるでしょうか。
 
>主なる神は私の罪をご自分の罪として負ってくださり、恵みのわざによる赦しを与え、
>さらに私の罪、弱さ、過ちのすべてのことを相働かせて益としてくださる方です。
 
彼は、自分の罪の後始末を、自分に出来ることもせずに、神に任せようとしています。
彼の言い分だと、いかなる過ちも、故意の偽善も、オートマチックに、益となる
ということになってしまいます。
信仰は、人が神の関わりを信じて、祈り待ち望むことです。
人が何もしなくていい・・というような信仰などありません。
神と人とは、反応しあう関係にあります。
 
>私たちに対する生ける神の愛とめぐみの業を証ししているラブレターなのです
 
神と人とは、反応しあう関係にあります。
神の私たちに対する愛と恵みは
ストーカーのように愛されちゃってしかたがないんだ、
ラブレターも来るんだ・・という変質者の偏愛ではありません。
もう一度書きます・・
 
神と人とは、反応しあう関係にあります。
 
 

 
批判対象「その名は不思議」
偽善者シャロムshalom のブログ
(彼、あなた、=シャロム)
 
今日の記事
恵みにわざに生かされる
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27539494.html
2016/6/24(金) 午前 8:06
 
恵みの業に生かされる
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26306215.html
2015/1/13(火) 午前 8:58
のコピペ
 
見るのは構わないが、決して好意的に関わってはいけない。
 
彼のうわべの丁寧さではなく、彼の本性が分かってくると、
彼の記事やコメントを読むたびに、物を投げつけたくなるほど
怒りを感じるようになります。それで、罵詈雑言など書いてしまうと、
これ幸い、してやったとばかり彼は
自分は罵詈雑言など書きませんと
嫌らしい決めつけの見なしを当ててくるでしょう。
彼は言論には全く向かない人だと思っていますが、
彼は卑しく勝ちを求めるところがあります。
だから彼に対する批判を他の人には勧めないでいます。
 
 
(2016年06月25日)
 
騙る(かたる)
宣う(のたまう)
頷く(うなずく)
瑕疵(かし)
綺麗(きれい)
慇懃無礼(いんぎんぶれい)
罵詈雑言(ばりぞうごん)
遭う(あう)
奥義(おうぎ)