こういうことは最後に書くべきかとも思いましたが、
最後がいつになるか分からないので
現時点での暫定的なまとめのようなものとして書いておきます・・
 
 
  伝統宗教とカルト
 
 
カルトは
新興宗教という意味らしいが
ここでは
この世離れした説を
絶対真理と生涯にわたって信じ込むこと
という意味で用いる
 
そういうカルトは
多くの場合
幸いよりも
人々と社会に災いをもたらしている
 
唯一神宗教は一般に
あるかないか分からないものを
あると思い込み信じ込み
信じたのちは
あると言う前提で生きてゆくこと
と思われている
 
だとすれば
キリスト教も他の唯一神信仰も
結局はカルトと同じ構造なのか
という疑問を考えてきて
 
私は
そういう思い込み信じ込みによって
他の考え方を排除してゆく人生が
よい人間と人生を形成するとは
現実を思えば、到底、考えられなくなって
 
そういう考え方に大いに反発して
 
少なくともキリスト信仰は
あるかないか分からないことは
分からないことをもって前提として認めたうえで
 
でも自分は
あると信じないと生きてゆけません
という切なる希望を告白することをもって
信仰告白とする
 
ゆえに信じると言う行為は
信じる対象が絶対者である場合
大方が情熱的な希望に近いことになる
 
というようなことを主張してきたつもりです
 
そのために
「人が主張する神」には
赦し、恵み、救い、いずれにも
真の神の聖なる根拠は
人が断定的に主張し得るものとしては存在せず
 
人が神を信じるとは
それらの幸いを来たらせたまえ
という
祈りの拠りどころとして神を待ち望む姿勢
以外には考えられない
ということ
 
また
唯一神を信じた原初の信仰者たちに思いを馳せれば
唯一神信仰は
彼らが命と存在を熱望するゆえに
そのためには
神が存在しない世界には人間として生きられない
という彼らの不可避の心情を信条とするものであった
であろうということ
 
神は絶対だと言う主張には多く
自説を絶対正しい
と言いたい野卑な自己顕示欲が含まれている
ということ
 
それは
神の言葉として
聖書が絶対だと言う主張でもあるが
絶対の聖書を
いかに人が恣意的に解釈しているか
という事実から
聖書が聖典であっても
聖書は解釈次第だから
絶対化することは解釈を絶対化することであり
すなわち自らを絶対化することに他ならない
ということをもって
解釈を絶対視する信仰は否定されるべきで
解釈という人の言葉は
決して信仰の信条になりうるようなものではなく
解釈は人の言葉として
人生とともに揺れ動きながら
絶対ではない人の信仰の大切な糧である
ということ
 
つまり
人の言葉は
神の言葉を表せるほど優れてはいない
ということ
 
聖霊体験などの
聖なる直接体験を主張する向きには
それによって絶対化されてしまう人
または人の主張について
必ず現実検討が必要であり
聖霊を受けた人に相応しくない言動を表す偽者を
蔓延らせてはいけない
ということ
 
以上のことをもって
 
信じれば救われると宣伝し
誰かの作った筋書きのみを信条として与えて
辻褄を合わせて理解したかのような
一時の思いを生涯にわたって
訂正不能とすることを要求するカルトと
キリスト信仰は本質的に異なり
区別できるだろうとも主張してきた
つまり
神の絶対に対する人の低さからの
敬虔を弁えの中心とするキリスト信仰は
カルトとは明確に一線を画するものである
と暫定的に結論した
 
今のところ
この私の考えを覆すか
修正させる説得力を持つ言説には巡り会っていない
と同時に
私自身も定まらない人の言葉で
信仰について表現してゆくことには
哀しいほど困難を感じている
そしてそれは信仰を人の言葉で表すとき
必然である
 
 
超常の不可思議な
絶対者の世界を理解することが信仰なのではない
 
分からない超常の下にあって
その超常が
すなわち神が
人のことを愛するゆえに赦し救い
ときには叱り戒め
人の言動に反応してくださって
聖書とともに歩む生き方を人に与え
個々の人の
肉体の命が召される時まで
人間として生かしてくださることを切に願い
そして
人間として不自由な心と言葉を抱えて
人それぞれの共感する情感と
弁える思慮とをもって
いとおしく、また、痛々しくも、
祈りに生きて希望し続けることを
神に与えられる信仰の人生と信じている
 
と・・今のところ書いておきます
 
 
(2016年06月29日、同日一部修正)
 
馳せる(はせる)
恣意(しい)
糧(かて)
蔓延る(はびこる)
覆す(くつがえす)
弁える(わきまえる)