その名は御霊?
 
 
自分の解釈に凝り固まって、自分の罪や偽善さえ見えなくなった者は、批判されても悪口しか返せず、しまいに黙って批判コメントを削除するしかなくなり、自分で書けなくなったら、今度は、信仰の話も転載記事を載せるようになったようです。ここに表れてくるのは、彼は、自分に都合の良さそうな記事を探して、その真意が何であれ、都合が良いと思ったら載せて、神からでも、自分ででもなく、とうとう他者の記事によって自己正当化を謀ると言うことです。
 
今回聖霊についての記事を載せています。勘違いする者にとっては、いかようにも利用できそうな記事です。そして彼は、まさに、その通りだ、とでも言いたげに、自らの罪や偽善を反省するのではなく、相変わらず、自己正当化を主張して止まないのです。
 
それこそ、いかようにも利用されやすい記事だと思います。こういう記事を書くから、キリスト教は、カルトが生まれるのを防ぐことができないでいるのでしょう。
 
>神は私たちを御前で聖く、傷のない者とし、ご自分の子とし、
>御子のかたちと同じ姿とすると定めておられる。
>そのためにすべてのことを益とされる。
 
危険だと思いませんか。そうだとばかり自分を御子と同じかたちで、何をやっても益とされる、と言い出したら、もうその人を止められないでしょう。こういう断定だけ書くことが、いかに危険かを知ってほしいと思います。
 
 (コリント人への第2の手紙、口語訳)
3:17
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、
栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。
これは霊なる主の働きによるのである。
 (2コリント3:17-18、新約聖書)
 
これは、神の新約についてのパウロの説明です。すぐにでもそうなってゆくのが分かると言うわけではありません。勘違いも曲解もあるわけです。それを、聖霊体験によって証明されたとばかり、
 
>聖霊は私たちの内側から、聖めてくださいます。
>天国に行くまで、栄光から栄光へと変えられていきます。
>御霊の変化とは、輝きが内側から外側へとあふれてくる変化なんです。
>「主の御霊がうちで働いてくださるにつれて、
>私たちはますます主に似た者となるのです」とあります。
 
変えられたと、どうやって分かるのでしょう、主に近くなったと、どうやって、分かるのでしょう、いったい、いつ分かるのでしょう。その者が、私は聖霊によって変えられた、と言ったときでしょうか。もしそうなら、信仰者は、信仰を誇るとき、主に近くなる、と言ってるようなものです。これだけでは、まるで、自分信仰やカルト化への道を開いているようなものです。そして、このような記事を、彼のような自分信仰者は求めているのです。この記事は思慮を欠いていると言わざるを得ません。
 
 (コロサイ人への手紙、口語訳)
3:9
互にうそを言ってはならない。あなたがたは、
古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
3:10
造り主のかたちに従って新しくされ、
真の知識に至る新しき人を着たのである。
3:11
そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、
スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。
キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。
 (コロサイ3:9-11、新約聖書)
 
この聖句は、キリストによって、旧き世の掟に縛られない、新しい自由の人になったことを伝えています。そして、あらゆる差別からも自由になったと伝えています。
 
>これが神のみこころであり、御霊の働き。
>救いの栄光からキリストの姿へと変えてくださる、
>イエス・キリストの人格を持った者となるとの約束。
>神は私たちを日ごとに新しくされていくと語られる。
 
「救いの栄光からキリストの姿へと変えてくださる」「イエス・キリストの人格を持った者となるとの約束」・・これらは、暴言に近い。いつそうなる、とか、どうやって分かる、とか、全く書いていない。人知の及ばない神の領域に人が等しくなると言っています。殆ど、自分は神になる、と言っているようなものです。実際の人の姿、現実の問題、罪と偽善のこと、何も書かずに、言ってよいことではありません。言ってそのまま信じれば、日ごとにモンスターになってゆきます。
 
神になりたがる人が多いこの地上で、このような文言を最も喜ぶのは、カルトでしょう。そういう人が、こういう記事を悦んで転載するのです。そういう人を批判しています。
 
超常のことばかり考えて、超常のことばかり書いて、現実離れしてゆくと、勘違いを聖化と思い違いやすく、目に見えて聖化されてゆく実感と裏腹に、実際は、自分の目にだけは見えない、神の奇跡の聖霊の、と語りながら、人間の気持ちの分からない人になってゆくのです。
 
>私たちの努力ではない。私たちには、何も良きところがない。
>ただ、御霊がなそうとすることに、こころを向ける、
>そのところに御霊が私たちを新たにすることを喜び、感謝していく。
>これが私たちの最善。今日も御霊の支配と取り扱いに、
>働きにより頼み、信頼して、御霊に明け渡し歩む一日としたい
 
人には何も良きところがないと言いながら、にもかかわらず、聖霊によってオートマチックに事が運ぶような言い方です。また、御霊が為そうとすることの方向が分かるような言い方です。そして、御霊が自分を新しくすることを喜び感謝するとは、新しくなったことが分かると言っているようです。最終2行は、讃美を飾り、そのために醜く思い上がった陶酔です。
 
私たちには何もよいところがない・・こそが、信仰の原初的真理なのです。信仰を語るのに、よいことばかり言うのは、大切なことを言い得ていない証拠です。
 
説教者または発言者が、人間としての弱さの共感を持ち得ないところに、福音はありません。
 
このような有頂天説教をする人を警戒してください。この人の文章に、必要なこと、何より大切なことは、何一つ書かれていません。彼の文章と同じです。間違いやすいところについて、その違いを明らかにするという思考が欠如しています。だから、彼は転載しやすかったのでしょう。大切でない、言葉の上だけ、美味しい話を、彼は何よりも好むからです。
 
この記事のように、聖なるものを理解するように勧める説教を聞いたら、人間として、具体的に何が言いたいのか、具体的にどうすればよいのか、本物と偽物をどう区別するのか、などが書いてあるかどうかに注目してください。書いてなかったら、怪しいと思ったほうがいいと思います。人間としての立場を忘れて、聖なる境地を誇って讃美している可能性があります。
 
自分が、のぼせ上がって、いい気分になることが、聖霊体験など聖なる直接体験と思い込む性質が、人間には、しっかりある、ということを覚えてください。もし本当に人が、聖なるものに関わられたら、敬虔な信仰者が、まず、覚える感情は、恐れだと思います。聖なる御方は、人知を超えているのです。そう誰にでも簡単に、受け取りやすいものを賜るとは思えません。導きは多く、人間らしい心に響く温かいものとして響きます。
 
キリスト信仰は、人知の及ばない神を信じる信仰です。超常の夢のような記事ばかり書いて、いい気持ちになってゆくと、いつのまにか、自分が超常の世界に住んでいるような錯覚と抱きやすいのです。それが固定化してゆけば、主に近くなるどころか、主に似ても似つかぬ思い上がりに舞い上がった自分絶対正義になり、罪も偽善も見えなくなり、輝きに満たされた有頂天に浸り、実は、人間でさえなくなり、偽善が内側から外側へと溢れるようになるでしょう。主イエスを信じる人は、まず、この恐ろしさを弁えないといけません。
 
聖なる体験や啓示を肯定してしまうと、そのときから、その人の言うことは、議論無用の絶対になるリスクがあることを忘れないでください。特に聖なる体験が、謙虚とは思えない人によって、文句を言わせない高圧な態度で主張される場合、特に警戒してください。
 
聖霊体験や異言や神の啓示を強調する者がいたら、その人物を見てください。一つ覚えみたいに、盛んに言うけれど、その言動において、不一致や矛盾があって、こちらの話を聞いても何とも思っていないような、分かっているとは思えないような、はぐらかしや、隠し事や、うらおもてがあり、人に対して権威的な姿勢や態度や、慇懃無礼などあって、ろくでもない人物で、とても尊敬などできないならば、その人は、偽者だと思います。神の御心を表す言葉の真偽は分かりにくいですが、人間を生かす言葉であるか、言った人が聖なる働きを受けるに相応しいか、つまり神を畏れて、聖なる体験を恐れて、見せかけではなく、へりくだっているか、といったことで判断するしかないでしょう。
 
 
 その名は不思議
 「御霊なる主の働きに明け渡す」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27550005.html
 
 
(2016年06月29日、同日一部修正)