その名は信じて?
 
 
今日、彼が自説の正当化のために引用するのは、
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
1:18
するとザカリヤは御使に言った、
「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、
妻も年をとっています」。
1:19
御使が答えて言った、「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、
この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである。
1:20
時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、
あなたはおしになり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。
 (ルカ1:18-20、新約聖書)
 
>時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったから、と言っています。
 
>年老いた夫婦から子どもが産まれることについてわたしは信じられません。
>しかし、そのことについて主なる神が約束しておられる、その言葉は信じたいのです。
>それはわたしが主なる神を信じているからです。
 
>信仰について学ぶ人には、この違いは重要です。
>聖書の信仰とは何でも疑わずにただ信じるということではありません。
>多くの場合、語られている神のみ言葉を信じることが人に求められています。
>ですから、人には信じられないようなことが起こる場合、
>主なる神は前もってそのことを予告しておられることが多いのです。
 
ザカリヤの当惑は、人間として当然なのですが、御使いが直接言った言葉に、どうして分かるでしょうかと、異を唱えたので、物が言えなくなったという話です。神は奇跡を起こせる御方、しかし、人は奇跡をなかなか信じない性質を持っているという話でもあります。
 
さて、聖句は、神が起こると言った奇跡を信じなかった、という罪のようですが、比べてほしいのです。神が起こるとも授けるとも言っていないことを、聖書の浅薄な知識から、分かる、信じる、そして言い張って悔い改めないならば、どちらが罪は重いでしょうか。後者は、神の言動を捏造する行為なのです。
 
私たちは、神に対して、思っているよりもしばしば罪を犯していると思います。その罪に対して、少なくとも気づいた罪に対して、祈りと告白と悔い改めによって、赦しと救いをいただく、というのが信仰です。聖書は、それを新しい契約として約束しています。
 
奇跡を信じなければ永遠に救われないとは書いていません。罪ならば、救いの道があるのです。悔い改めの道は、常に用意されているのです。今ここに、悔い改める気の全くない者が、奇跡を信じると言っていて、一方で偽善を続けているとしたら、その者は、同じ信仰者として認められていいのでしょうか。批判されることは何もないのでしょうか。罪と偽善を告白して、やり直さなくても、今言っていることを続けるだけでいいのでしょうか。ザカリヤと違って、奇跡を信じているから、偽善者でも、神は、義を与えるのでしょうか。もし信仰が彼の言う通りなら、私は決して信仰者にはなっていないし、生きていたくもないし、実際、もう死んでいるでしょう。
 
この記事を書いた彼は、御使いにでも、前もって、何かを告げられたのでしょうか。彼が、信仰の伝道者か、預言者にでもなって、神の御旨を成就するから伝えよ、とでも教えられたのでしょうか。そして、コメントで批判をブロックしたり、削除したりして、彼に都合のよいように、つまり彼が、自分は批判されることは稀で、批判されたときも、ちゃんと弁明して、批判を退けている、というように見せかけるようにしなさい、それをしても罪にはならない、何をしても罪にはならないよ、とでも、告げられたのでしょうか。おかしいでしょう。
 
神の御使いが、偽善によって神に背いてもいいよ、などと教えるはずはないのです。もし彼が、このことを持ち出して、自分は悪いことなどしていない、と言うのなら、彼は、神と御使いで教えが違ってもいいと思っていることになり、自分は、神ではなく、御使いにつく、と言っているようなものであり、それは、そのまま、神が唯一であることを信じていないことになります。(ここは、理屈を言えばの話です・・)
 
自分を何とかして聖化しているように見せかけようとする偽善者は、手段を選びませんし、聖書の悪用も遠慮なしに行う、ということを示しています。前にも書いたことを、また持ち出して言うのは、彼が、何度でも言うが、自分はこういう聖なる者だぞ、頭が高い、とでも言いたいのでしょうか。
 
彼が、何かのお告げを受けたという話は、聞いたことがありません。しかし彼は、自分の言うことを、啓示だ、啓示だ、啓示だから議論無用だ、と繰り返し言い張ってきました。そして、彼は、コメント欄を閉鎖して批判を全く受け入れず読まないし聞かないが、自分の言うことは啓示だから聞いて従え、と書き続けているのです。彼は偽善者ぶりだけを発揮してきたのです。お告げつまり聖なる啓示を受けるのに全く相応しくない偽善行為を今も日常的にやっています。
 
批判も忠告も聞く必要はないが、人々に言う必要はあると、彼は、自分で書けないものだから、他者の記事から、自分に言葉面だけ似ていて、利用できる記事を、自分のために引き合いに出すことには熱心なようです。弁明も反論も出来ず鋭い感性の洞察も出来なくなった彼は、これからも、あらゆる手段を講じて、今までと同じように、超常崇拝の、婉曲的で、慇懃無礼で、正面を向かないで済む話を、讃美として、聖書から、他者の意見から、でっち上げてくるでしょう。その都度、讃美でも何でもない、彼の自己防衛という実質を見逃さないようにしたいと思います。
 
>私たち日本人の宗教、信仰についての考えは
>聖書によって証しされている生ける神に対する信仰とは異なるようです。
>決定的な違いは神の啓示に対する信仰か、
>人によって作られ、言い伝えられたものかの違いのようです。
 
(言い換え)彼の信仰観は
聖書によって証しされている生ける神に対する信仰とは異なるようです。
決定的な違いは、彼のように、説明できなくなると、神の啓示だと言い張る信仰で、
彼によって作られ、我執によって言い広めようとする性質のもの、という違いのようです。
 
聖書による、と彼は言っていますが、その聖書が解釈次第であること、そして、彼のように、人間であることを弁えずに、自分が気に入るように、超常の話として、およそ人間離れした解釈をして、しかも、自分の解釈に過ぎないのに、それを絶対として、神の啓示だ、啓示だ、と言い張る、という人間としての身の程を弁えない信仰観を語っています。
 
神の言葉に対して、人は、人の言葉を一対一で対応させることは出来ません。そういう、人の、神に対する低さというものを、全く無視するところから、文字通りを絶対としたり、自分流の解釈傾向を絶対としたりすることで、熱すれば熱するほど、信仰を守ろうとすればするほど、項が固くなって、どうしようもない繰り言になる信仰が生まれてくるということです。
 
何故、自分の不完全で貧相な世界観を、そのまま神と信仰の世界に当てはめて、通用しない信仰観を、繰り返し吹聴して悔いないのでしょう。それは、神の啓示だから、と信じてしまった時点で、そこを絶対不変と定めてしまったからです。絶対不変は神の性質であるのに、人が思い上がって人の世界に当てはめてしまうと、もっともっと考えることが、人からも聞くことが必要なのに、絶対不変の信念と安易な平安気分を保つために、絶対不変だからこそ成長も進歩もしなくなる、という殆ど病気か障害に似た様相を呈してきます。
 
 
狭き門はそれでも、いつでもフルオープンで用意されているのに、
 
内側の、夥しいクモの巣や、どす黒い闇や嫌がらせのあとを隠して、
外に向かって、広き門を開け、
門を飾り、ポスターを張り、宣伝することをやめない人・・・
 
 
 その名は不思議
 信じて生きる
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27551578.html
 2016/6/30(木) 午前 10:56
 
 同じ内容の記事:
 何を信じるのか 2015/12/21(月) 午前 11:31
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27146752.html
 何を信じるのか 2014/12/31(水) 午前 9:13
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26265297.html
 
 見ることがあっても、
 うわべの丁寧さを、柔和、親切、と勘違いして、
 うっかり関わってしまうと、
 人間性などには共感しないと言う偽善者の
 訂正不能の信条によって、実は成長不能を広めるばかりで、
 新鮮な感性も知性も失わせる固着宗教だと思うので、
 決して好意的に関わらないでほしいサイトです。
 
 
(2016年06月30日)
 
弁える(わきまえる)
項(うなじ)
繰り言(くりごと)
捏造(ねつぞう)
御旨(みむね)
婉曲的(えんきょくてき)
夥しい(おびただしい)