とこしえのマンガ
 
 とこしえの御座 (詩編9:8)
 2019年07月27日 楽山日記(LD)
 
 
「主は裁きのために御座を固く据え
 とこしえに御座に着いておられる。  
 (詩編9:8)」
 
 (詩篇、口語訳)
9:7
しかし主はとこしえに、み位に座し、
さばきのために、みくらを設けられました。
9:8
主は正義をもって世界をさばき、
公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9
主はしえたげられる者のとりで、
なやみの時のとりでです。
 (詩篇9:7-9、旧約聖書)
 
救いに関する大事な教えが書いてあるのに、楽山は、自らの空想に都合のよいところしか引用していません。楽山が、「しえたげられる者」ではなく、しえたげる者だからでしょうか。
 
以前は、とこしえ、永久、永遠という言葉は、けっこう好きだった。
 
楽山が好きなのは、超常言葉であることが表れています。人間の心に目を向けないことも、ここに、表れていると言ってよいでしょう。しかも、聖書に表された神の性質を、神を否定している楽山が、ほとんど趣味的な表現で「けっこう好き」だったそうです。
 
でも近頃は、そういうことを想像するだけで圧倒されてしまうし、ふっと気が遠くなるような心持ちがする。
 
「圧倒されてしまう」「気が遠くなる」・・とこしえ、ということを、想像することは、3次元+時間軸に縛られている人間には出来ないはずです。楽山は、どんな想像をして、気が遠くなったのでしょう。超常だからすごい、ということくらいでしかないと思います。軽い気持ちの、嘘でしょう。
 
たとえば、とこしえという時間は、宇宙の百倍の大きさの石があるとして、、一兆年に一度、鳥の羽根でかるく撫でることを繰り返し、すべてが摩耗して塵になるまでの時間よりも、ずっとずっと長いのだろう。
 
何という分かりにくい喩えなのでしょう。「宇宙の百倍の大きさ」も「一兆年」も、人間には、想像の域を超えているはずですが、自分は分かるんだと言いたいのでしょうか。自尊過大の誇大妄想的な表現としか言えないでしょう。あるいは、何かの物語のパクりでしょうか。
 
そのくらいの間、神は御座についておられると想像したら、あまりにスケールが大きすぎて、めまいがする。
 
とこしえ、だから、永久なわけです。そこで、人間の限界を感じるはずです。神の御坐を持ち出す必要はないと思います。なんか、ズレていると感じます。「めまい」は、軽い気持ちの、嘘でしょう。
 
また、人が永遠の命を得たとしたら、そういう時間を生きることになるのだろうし、これも想像しただけで、足下がふらふらしてくる。ちょっと怖い気もする。
 
永遠を、時間としか感じられない楽山です。ときに聞くことのある、一瞬が永遠、という言葉も、楽山には理解不能なのでしょう。小学校の時空の認識のまま止まっている感じです。想像力が、正常に発達していないのかもしれません。能力の問題ではなく、体質の問題でしょう。
 
「足下がふらふらしてくる」「怖い気もする」も、軽い気持ちの、嘘でしょう。全体に、楽山は、実感がないことを補うかのように、大袈裟で単純な表現をしてきます。飾りだけの作文です。
 
そんなわけで以前は、とこしえ、永久、永遠という言葉には憧れを持ってたりもしたけれども、最近はどうも、そういうことは想像することさえ遠慮したい気分になってきている次第である。
 
楽山の「憧れ」ほど、怪しいものはないでしょう。想像は遠慮できる性質のものでしょうか。浮かんでくるものではないでしょうか。想像は、楽山にとって、はっきり決意して、浮かばせるものなのでしょうか。想像は、できるときに、してしまうものです。
 
しかし、神の性質は、想像さえできないものです。恐らく、楽山の永久(とこしえ)は、いくつもの作り話が可能になるような、紙に書いたマンガのような、平面的なものなのでしょう。
 
 
滞る永久

滞る永久(とどこおるとこしえ)
 
 
(2021年08月02日)
 
 
 
  友
 
あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
 
人は到底それらすべてを知り得ない
 
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
 
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである
 
あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
 
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
 
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
(90年代か)
 
 
 
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