偶像と癒し
 
 癒しと救い
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27604264.html
 
 
自分に都合の悪いコメントを、ブロックし、削除し、コメント欄を廃止してまで、自説を、自分に都合よく見せようとする偽善者が、そのことを、悔い改めることも、罪と偽善を認めることもせずに、誰とも双方向を持たずに、独り言のような記事を書いています。彼の信仰は、自分に都合の良いこと、悔い改める気のないこと、今でも聖書の先生として教えようとすること、それによって、さらに、偽善を加速させていること、等々を見ても、自分の都合に合わせた信仰、つまり、偶像崇拝の特徴を典型的に持っているのですが、偶像崇拝者である彼が、偶像崇拝について書いています。
 
ここに、自分の偶像崇拝を認めなていないことは明らかなので、ますます偽善の偶像崇拝を語ることになるのですが、それに全く気付かないし、自覚することもないという悪質ぶりになっています。自分が犯している罪について、他者に、犯してはならない、と説教しているわけですが、そのことに、気づかないで、どうして、日々新しくされる信仰の道を歩むことが出来るというのでしょう。すべての悪について、前提として、いつも、自分をやすやすと除外してしまう体質が、信仰の病理となっている人です。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
5:25さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。 5:26多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。 5:27この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。 5:28それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。 5:29すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。 5:30イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。 5:31そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。 5:32しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。 5:33その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。 5:34イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。
 (マルコ5:25-34、新約聖書)
 
この話は、キリストの奇跡物語であり、また、その奇跡が、起こると信じて触れることによって起こるという話になっています。この女性は、イエスのことを聞いて、矢も楯もたまらず必死です。そして、衣に触るということが宗教的行為かどうか分からないが、衣にでも触れば、奇跡が起こって治るか、少なくとも、奇跡を起こすと聞くイエスだから、衣にでも触れば何か変わるかもしれないという思いでやって来たのでしょう。キリストが告げる前に奇跡が起こるという珍しい話ですし、信じれば救われる、という宗教の宣伝文句を思い出しもするのですが、奇跡は起こるか、人の思い通りには起こらないだろう、ということを考えるよりも、・・考えてみると、本当に本気で、求める者のみが信仰の恩恵に与れる、ということを受け取ることは出来るでしょう。
 
ここでも、長血に苦しめられている女性の、イエスに対する低い姿勢と、治りたいという気持ちが自分のためであっても、本気の熱意が、イエスに伝わったという見方もできるかもしれません。自分を低くすることのできる人に対して、慈しみを惜しまないキリストを伝えてもいます。
 
実は奇跡について何も分かってなどいないのに、何でも奇跡で救われ、人は関係ないかのように語る超常信仰者が、起こるんですよと、空約束を信じ込ませるには、都合の良い話でしょう。そう都合よく奇跡が起これば苦労はない、という常識を知っている現代人には、信仰の本気度、という観点から、読み取るべきものはあるだろうと思います。
 
シャローム氏は、いつものように、キリストの奇跡が本当に起こったからこそ、この女性は、イエスの求めに総てを打ち明け、偶像崇拝から、癒やされた礼拝者になったという書き方をしています。
 
私たちは、大方、偶像を持っています。キリストを想えば、理想のキリスト像を思い浮かべます。祈るときも同様でしょう。思い浮かべた先に向かって、祈っているのです。キリストの場合は、イエスという人物像があり、その言行録である福音書もあるので、なおさらなのでしょう。信仰者において偶像は、常態とも言えそうなものです。神と聖霊についてもほぼ同様です。このことこそ、人が、神と違って、不全に定められていることを示しています。したがって、偶像崇拝を逃れるには、まず、偶像があることを認めることから始めるべきことなのです。
 
十戒に背く偶像など絶対持ってはいけない、もちろん、自分は持っていない、と断定した前提の上で、偶像を、自分の外の、憎むべき対象としてしか見ていない者は、自分のために女性がイエスに触ろうとしたことを偶像崇拝者と決めつけているようだが、偶像のことで、他者のことを、とやかく言えないのが私たちなのです。それこそ、姦淫を犯した女性のことで「身に覚えのない者が石を投げよ」と、キリストが言ったこととつながってくるのです。(この場合も、姦淫という罪を否定しようもなく、さらし者になっている、自分を決して高くできない女性に対して、キリストは、慈しみを惜しんでいません。)・・つまり、偶像については、人間に出来ることとして、自分も偶像を持っていることを認め、自分を修正可能にするほどには不全の自覚と持つことですし、あとは、何度も言いますが、祈りだけが残るでしょう、即ち、正直に祈ること以外に何が出来るでしょう。
 
自分のためとはいえ、癒しを一途にイエスという名の御方に求めて、触るだけでも・・というほどに本気だった女性には、信仰は全くなかったのでしょうか。偶像があったかなかったか、よりも、教訓とするべきは本気度です。本気であればあるほど、神に対して、自分を低くするしかありません。
 
偶像崇拝者ほど、自分の偶像に気づかず、それで、偶像崇拝を問題にする傾向があるようです。そして、自分は偶像崇拝などしていないという絶対の気持ちにのぼせて、他者の偶像を云々しながら、自分は、とても安穏な態度で、偶像との密会にどっぷりつかって、偶像との日々を邪魔されたくないのです。魂が砕かれず、砕かれることを欲せず、魂の周りに偶像信仰がべったり張り付いたままなのです。そのような信仰が偽善を伴うのは、ほぼ一対一の対応で、当然の成り行きなのです。
 
>自らのすべてを投げ出し、告白した時、その人は救われた礼拝者して新たにされたのです。
 
自らのすべてを投げ出し告白するということを、全くする気のない人が書いています。したがって、彼は、礼拝者として新しくされることがなく、これからも、偶像崇拝者として、偽善者として、自分の都合だけを考え、自分に都合のよい神を、即ち、自分を拝み続けるのでしょう。
 
>だれもが自分のために「癒し」を追い求め、偶像を追い求め、ひれ伏そうとします。
>しかし、偶像は偽りの一時的な癒しを与えますが、心を縛り、支配します。
>これは宗教だけではなく、政治にも当てはまるようです。
>しかし、イエスは言われます。「安心して行きなさい」と。
 
人のことを、とやかく言って罪に定めても、決して自分の、罪と、偽善と、偶像崇拝について認めようとしない姿勢が明らかです。
 
彼は、これを書いたことで、務めを果たしたような気分になり、「癒やし」を求めるのでしょう。誰に?・・言うまでもなく、彼に都合よく拵えた偶像に対してでしょう。決して、彼を叱らず、いつも彼に義を与え、どんな罪も偽善も偶像崇拝も、赦して、癒やしを与える偶像に対してです。
 
「安心してゆきなさい」と言ってくれるのは、そのような偶像以外には、もはや、いないからでしょう。ふつうは、自分は?・・と振り返る性質を持ち、学んでいるのがキリスト者ですが、これほど、自分の罪性について鈍感な人は、珍しいと思います。
 
>だれもが自分のために「癒し」を追い求め、偶像を追い求め、ひれ伏そうとします。
 
この「だれもが」に、シャローム氏は、自分を入れているのでしょうか。
 
>しかし、偶像は偽りの一時的な癒しを与えますが、心を縛り、支配します。
 
その偽りの一時的な癒やしだけで生きて、心を縛られ支配されている人が書いています。
 
>これは宗教だけではなく、政治にも当てはまるようです。
 
私は、政治について、少しは書いたことがありますが、細かいところまで書くだけの知識がないので、大きなことを言うのは、控えています。
しかし、シャローム氏は、自分を悪からやすやすと除外し、偶像はいけないと豪語したいだけでなく、信仰の話について批判に答えることが出来なかったのにもかかわらず、その勢いのまま、今まで、政治的な記事を書き、書けなくなったら転載して、ネトウヨなどからの、ちょっとした批判に対しても、はぐらかすだけで、答え得たためしがないのです。身の程を弁えるということが、信仰についても、他のことについても、出来なくなると、彼のように、声と態度だけ大きくなるのでしょうか。
 
>しかし、イエスは言われます。「安心して行きなさい」と。
 
彼が、自分はそう言われている、というのであれば、どこにその実があるのか、極めて不可解なことです。しかし、彼は恐らく、他人事のように偶像崇拝を語り、誰に対しても偶像崇拝になってはいけないと、単純な教理の短絡に満足して、ディスプレイに映る獲物を射止めたかのように、それこそ「安心して」、日々を、偶像一体型偽善信仰に捧げて「行く」のでしょうね・・・
 
>娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです
 
「せめて、み衣にでもさわれば」と行動し、その結果がもたらされ、それを知った女性は「恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた」、そして、その女性の言動に反応したキリストの言葉です。信仰は、神から人への単方向の救いではなく、神と人間の相互の反応であることを示しています。
 
キリストの神性は、女性の本気で一途な行いと正直さに反応しています。信仰が、神の業である奇跡の単方向ではない、ということを表しています。また、奇跡が起こっているのだから、当然、人の正しさとか、心構えとか、努力とかいった、自力ではないことをも示しています。信仰が、神性と人間性の、相互の反応であり、双方向であることを示しています。神性は人間性に反応しているのです。いと高き神の愛は、低き人の言動に反応しているのです。人には見えないところまで、神は総てを見ておられるということです。
 
シャローム氏は、また、分かっているふうに、偉そうなことを書いていますが、いったい、いかなる低さ?と正直さ?を捧げて、いかなる?神の反応を待っているつもりなのでしょう。
 
 
(2016年07月28日、同日一部修正)
 
拵える(こしらえる)
与る(あずかる)