聖霊を信ず?
 
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
14:14何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。 14:15もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。 14:16わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 14:17それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
 (ヨハネ書14:14-17、新約聖書)
 
このような聖句は、聖霊によって自分を正当化したい偽善者にとって、それこそ美酒だろうと思います。何故なら、全く矛盾した行いである罪と偽善を犯していても、この聖句が、共にいて、内にいて、助け主として、望みを叶えてくれるというのですから。しかし、よく読んでみると、「わたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」と書いてあります。聖霊は、主のいましめを守るように、それを助けるように、働く真理の御霊だということです。聖霊によって生きている者は、罪や偽善を犯したりはしない、たとえ間違いを犯しても、悔い改めるように聖霊は働く、ということで、そういう人の行いを聖霊は助けるのです。聖霊の働きは、罪や偽善に対して、悔い改めるように働き導くはずです。つまり、そういう働きへ向かわない者には、偽善を悔いず、改めようともしない者には、聖霊は、降りているはずはないのです。
 
>私たちを神の子どもとしての身分に生きるように、神の真理のうちに導かれる。
 
彼が小躍りして喜びそうな文言です。こういう文章だから、偽善者に乱用されやすいのでしょう。そして偽善者は、神の子どもとしての身分さえ勘違いして、人を人とも思わない尊大で、強圧的な言動を向けてくるのでしょう。そして、さらに勘違いして、真理を得て、大いなる慰めと励ましを得た気分で、強くなった自分を押し出して、他者を切り捨ててゆくことでしょう。求める、求めるべきである、求めてよい、得られる、得られた、とても微妙な、こういう言葉が、どれだけ勘違いされて、歪められて、偽善者を蔓延らせてきたことでしょう。
 
>ともに喜び、悲しみの時は慰め、苦しみんでいる時は励まし、私たちを助け、導く。
 
偽善者は、いつも聖霊に導かれている、という、共感を持ち得ず、ただ、真理が内にある、という益の言葉だけに、陶酔し、慢心して、偽善を犯して、なお、神の真理に導かれることを信じ込み、人にも語ろうとするのです。そして偽善者は、喜び、慰められ、励まされ、助けられ、導かれてきたという思い込みで、自分勝手な、決して非を認めない気持ちを、強化してゆくでしょう。今日、彼が、彼にとって都合の良い言葉の表面を持つこのような記事を引用したことが、その傍証となるでしょう。
 
 (ガラテヤ人への手紙、口語訳)
5:16わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 5:17なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
5:18もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
5:19肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 5:20偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 5:21ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
5:22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 5:23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 5:24キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
5:25もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。 5:26互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。
 (ガラテヤ5:16-20、新約聖書)
 
「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」と書いてあります。聖霊が降りるから、すべてOKで、もう安心、とは書いてありません。聖霊によって生きよと、いつも、完成したということではなく、これからのことを命じられています。「聖霊によって進もう」とは、そういうことです。決して、聖霊が降りたなら魔法のように奇跡が叶う、という意味ではありません。
 
私たちは、聖霊を信じると告白したのです。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」ということで、これらを行うように聖霊を与えられたのであり、与えられたからといって、それが善行の証拠にはならないのです。
 
また「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐい」の肉の働きに抗して打ち勝つように、聖霊は遣わされているということです。聖霊が与えられたから、それが肉に打ち勝ったという証拠ではないということです。順序を間違えないでください。偽善者は、そこを利用しますから。
 
したがって、聖霊を無視したり、悲しませたり、さらには、神の怒りを買うような、偽善だけはしない、また、たとえ、偽善を行ったとしても、そのときには、頽れるように身を低くして、悔い改めなければならないのです。最初から、聖霊に導かれているから、やることなすことは、すべて御心に適い、悔いる必要はない、などということでは決してないのです。
 
偽善は、悪であり、善を装う欺き、ということが加わって、いっそう悪性度を増して、この世に蔓延っているのです。偽善者が伝える言葉の落とし穴に嵌ってはいけません。御言葉さえ歪めて利用する偽善の罠に陥ってはいけません。
 
 
 「我は聖霊を信ず」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27602502.html
 
 
(2016年07月29日)
(2016年07月31日、一部修正)
 
蔓延る(はびこる)
傍証(ぼうしょう)
頽れる(くずおれる)
適う(かなう)
陥る(おちいる)
罠(わな)
嵌る(はまる)
歪める(ゆがめる)