宣教の愚かさ
 
 
いかにもシャローム氏の好きそうな記事です。大仰で、断定的な派手な言葉で、実際は理解不能に近いのに、景気づけのように、気合いのように、勢いで、分かれと言ってくるような言葉です。
 
>さあ、一歩片足を引いて翻って180度回ろう
>出来る限り早い時点で心を転回させよう
>大きな声で「イエス様あなたにアーメン!」
>いち、に、さん!
>イエスさまは、いつでも大きな手を広げて受け入れてくださる
>悪魔に機会を与える隙もないほど、瞬時に
>イエス様に帰ろう
 
励ましのようにも思えるが、奇をてらった語り口で、こういうのは、だんだん、カルトに似てきそうな感じがします。回れ右、大声で呼び、瞬時に、キリストに帰る、・・・その前に、人間としての自分に帰ってから、言ってください、と言いたくなるような、さぞかし、決めつけの強い、めんどくさい人なのだろう、と思います。こういう人が、ときどき、いるでしょうね。自分を特別視していて、俺には分かるぞーと言ってるような、悟ったような態度で言い張るような者が、教会にも、ネットにも、いるということです。
 
>私の心の中心に、私の目の前にイエス様を置くならば
>真なるイエス・キリストの霊が私を支配し
>私は瞬時に闇から救い上げられる
 
何だか、元気第一の新興宗教のようだ。目の前にキリストを置く、とは、いかなる偶像だろうか。そして、3行目は、いつでも、自分のために、キリストは働くのだ、と信仰自慢をしているようなもので、これだけでは伝わらないだろうし、公に向かっては、空約束に近いが、まさに実際、これに似たような考えで、教えた気になっている者もいる、というのが現状です。
 
 
>それらの愛を超絶して、
>神が罪人を許し受け入れる愛、正しきものが罪人をあわれむ愛、
>許しがたき仇敵の為に死をとして愛する愛、
>そういう愛を「アガペー」というのです。
>そのような愛は、人間は持ちあわせていません。
>そういう愛はただひたすら、神より出るのみです。
 
神の愛は、神から出るのだから、人には分からず、人は何も出来ないということを、言い訳にして、信仰のすべてを、神の業だから、奇跡という超常に帰して、人間を見ず、自らを省みず、それを、さらに言い訳にして、自分の誤りも過ちも罪も偽善も愚かさも認めず、悔い改めることもなく、「宣教の愚かさ」の逆説にも気づかず、こう書いてあるから、今のままでよいと思い続けて、都合の悪いことを隠し続けて、神に讃美だけを呪文のように捧げ続けるが、神に対して正直さを捨てている者もいるのです。
 
神の愛を説くのに、賢さは要らないけれど、神の愛を説くのだから、愚かだという自覚については、本物でなければならないのです。神の愛にお願いするのだから、偽りがあってはならないのです。
 
そして、神の愛に答えるのだから、宣教について、信仰について、
隠し事や虚飾や偽善や故意の偽りがあってはならないと思います。
 
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
1:21この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
 (1コリント1:21、新約聖書)
 
宣教の愚かさについては
「その名は口づけ?」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18618813.html
に述べましたが、そこに書いたのは次のようなことです。
 
この聖句の「愚かさ」は、神の真理を弁えないけれど、信仰によって、信仰を宣べ伝える一途さ、とでも言うべきもので、宣教に人の利口さは必要ないと言っているのかもしれないし、人の宣教などは神に比べると、みな愚かな宣教に過ぎないと言っているのでしょう。
 
> しかし、最後に残る聖書の不可思議さは説明しきれない。商品を売ったり、
>入会をすすめたりする時のように、説明や計算でなっとくして頂いて、
>クリスチャンになってもらう事は困難である。いや不可能と言ってよい。
> ただ一方的に聖書からあなたに流れる宣教の言葉が、ある日突然あなたの
>心の壁をやぶって、あなたの心にキリストの火をやどす日まで、ただ一途に
>理解されにくい神の言を語り続けるのが「宣教の愚かさ」なのである。
> (1978.10.15週報「キリストの福音」より)
 
人は不全なので、宣教においても、至らないところがあり、そこは、どうしても、神に願うしかない、最後は、常に、神の導きと取り成しによる、というのは、真実だと思います。
 
「宣教の愚かさ」も、聖書に、よく見られる逆説的表現です。
 
しかしながら、ここで大事なのは、至らない人間である自分を本当に自覚して、自分を愚かと思っているかどうかです。
 
自分を愚かだなどとは全く思っていないし、愚かだという自覚が、言動にも全く表れていないのに、聖句や他者の言葉を持ち出しては、「弱さを誇る」ように、今度は「愚かな宣教」を誇る者もいるので注意が必要です。
 
往々にして、そういう者は、自分の努力不足だけでなく、自分の信仰の過ちをも無視して、自分の失敗や、罪や、偽善や、偶像崇拝も無視して、非を認めず、聖句から「愚か」と書いても、少しも愚かさを認めておらず、内省も反省もする気がなく、ひたすら、いたずらに、記事を重ねて、こう書いてある、こういう人もいる、分かったか、だから自分は正しい、とでも言いたいかのように、すべてを人のせいにして、動かず、感じることもなく、考えることもなく、自業自得も思わず、苦しみに対して他者への怨念を燃やしながら、慎みのない自己顕示を続けているのです。
 
理解されにくい神の言を語り続けるのが「宣教の愚かさ」であるためには、上のようにならないために、自分の、至らなさ、罪、偽善、失敗、愚かさ、を本当に認めて、告白し、赦しを乞い、そのうえで、宣教の姿勢と態度を、日々改め、祈り、新しくしてゆくことが必要です。このことも、また、信仰なのです。宣教して、よかった悪かった、とにかく今日は終わった、と思うだけではなく、人に信仰の話をしたら、自分の信仰を見直し、その成長を自ら促すことが、信仰なのです。記事を転載して、自分の正しさや立場や権威のほうを促し、自分を守るような在り方では、何をやっても空しいだけなのです。「宣教の愚かさ」を、豪語するだけで、反省もしない愚かさにしてはなりません。
 
「砕かれた魂」は、
信仰者の日常に、「宣教の愚かさ」に、いつの日も、使命として、信仰に必須であります。
 
 
 釘宮父娘 宣教3題
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27609427.html
 
 
(2016年07月31日、同日一部修正)