証しする偽り
 
 
シャローム氏が転載する記事は、讃美の記事、断定表現の多い硬質な記事、神の領域をテーマにした記事、特に聖霊をテーマにした記事、という特徴を持っていることが多いようです。理由は単純で、ありふれた讃美を大仰に書けば、本物かどうか見分けにくいこと、断定は、彼の決めつけと思い込みの信仰に合致していること、神と聖霊は、超常信仰の彼としては、そこから啓示を受けたから問答無用とするためでしょう。
 
>私たちは頑張って、自分の何かで救いを、信仰を達成するのではない
 
かといって、私たちは何もしないでいい、何も気をつけなくていい、心掛けなくていい、ということではない、ということは、常識のある人ならば分かるはずです。
 
>何よりも大切なことは、聖霊が私たちを信仰の深みに導き、
>確信を与えてくれることに安息すること
 
ですから、聖霊が確信を与えてくれると確信しさえすれば、万事OKで、自動的に、自分のすることは総て正しくなる、ということにもならないはずです。ここを、偽善者は、悪用して、自己絶対化を進めているのです。
 
安息は、その時々に与えられるもので、すぐに与えられて、ずっと同じ安息が続くとは書いてないと思います。私たちは、考え、行動し、その結果を祈りの場で、神に報告して、赦しと癒しと、少しばかりの平安を与えられる日々を送り、それぞれの時までを過ごすのでしょう。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
14:25これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。 14:26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
 (ヨハネ書14:25-26、新約聖書)
 
思い起こさせるのであって、聖霊によって、すべてが完成するとは書かれていません。完成は、終末のときだろうと思います。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
15:26わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。 15:27あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。
 (ヨハネ書15:26-27、新約聖書)
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
16:8それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。 16:9罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。 16:10義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。 16:11さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。
 (ヨハネ書16:8-11、新約聖書)
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
16:12わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 16:13けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 16:14御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。 16:15父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。
 (ヨハネ書16:12-15、新約聖書)
 
真理の御霊が来るときに、真理の道に導かれるのは、ずっと先のことです。それは終末と言ってもよいくらいです。今は、地上の人として、神の民として、努めるべきことがあります。だから、今そうなる、というわけではありません。すべてが主の者になるのは、今はまだ、起こってはいません。その道のりを預言して、知らせています。それが、聖書の今というときに、始まったということを、知らせているのです。・・なかなか、思うように表せませんけれど・・失礼・・。
 
>真理の御霊の大切な働きは、イエスこそ救い主キリストであるとイエスを証し、
>イエスが真理であり、命であり、父の身元へ導く道であること、
>イエスご自身をより知ることを教える。
 
これをもって、偽善者は、聖霊に導かれるから、主を知っているから、自分には非がないという問答無用の言い分として使うのです。
 
>また、みことばを真理によって理解させ、これから先のこと、
>イエスが再び来られ、新しい天と地が待っていることを、教える。
 
待っていることを教えています。これから先、すべて、うまくいく、という保証ではありません。偽善者のように、自ら意図して、神を裏切る者だけは、救いを拒否しているわけだから、救われようがないということです。
 
 (テモテへの第二の手紙、口語訳)
3:13悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。 3:14しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、 3:15また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。 3:16聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 3:17それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
 (2テモテ3:13-17、新約聖書)
 
学ぶべきことは、たくさんあります。悪人と詐欺師に騙されないためでもあります。
 
「自分が学んで確信しているところに、いつも留まる」とは、そこにいつもある平安によって暮らせる、という意味ではありません。
 
神の霊感によって書かれた聖書を、あらゆる良いわざに対して十分が準備が出来て完全に整う者になるのは、聖霊によって、人が学んでゆく道のりであって、聖霊を受けて感謝して、今、叶うというものではありません。考えてみてください。それぞれの人の今という時点で、すべてが完成して、誤りのない人生が続くのなら、この世のあらゆる悲劇は起こっていないはずなのです。
 
>それで、私たちのすることはただ一つ、マリヤがしたように、
>御霊の前に座し、すべてを任せ、明け渡す。
>求めるものもただ一つ、御霊の支配と取り扱いだけ、と。
 
ですから、すべてを任せ、明け渡すとは、絶対的な支配を神に委ねるということであって、人の道について、何も考えず、言わず、何もしない、ということでは決してないということです。
 
御霊の支配と取り扱いを求めるとは、祈りにおいて、御霊が自分を支配し取り扱うことを求める、ということに他なりません。御霊が自分を支配し取り扱っていることを書けば、そこに表されるのは、求めることを、そのとき、忘れている心に過ぎない。
 
 
だから、まず、自分の至らなさを語るべきである。整った姿を書こうとしても、そこに表出されるのは、求めることを忘れた人の満悦の姿でしかないだろう。福音伝道を志すなら、不全の自分の、そして、不全の人の、至らなさを書かずには、始まらないないだろう。
 
信仰は、道を求めることであり、道を得たと誇ることではない。達し得たと思うところは、そこから出発するとき、既に、過ぎ去るところであり、いつの日も、私たちは、この地上では、不全である。求めても、それが得られた、という慢心を避けないと、信仰ではなくなるだろう。
 
人間として出来るところまでを書く、それが信仰を宣べ伝える人間の使命である。超常については、祈り願うことであり、それを、成り立っているように書くのは、既に的外れである。
 
罪を告白する心と、罪がなくなったと讃美する心と、キリストは、どちらを本気だと認めてくださるだろう、と考えてみるべきであろう。
 
 
 その名は不思議
 「証しする御霊」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27607036.html
 
 
(2016年08月01日)