ご丁寧な背教
 
 
あなたはどこにいるのですか?
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27613712.html
2016/8/1(月) 午前 11:47
 
愛のパートナーを求めて
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26849710.html
2015/8/13(木) 午前 7:58
 
愛のパートナーを探し求めて
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/20597682.html
2011/7/20(水) 午後 3:55
 
 
コメント欄を閉鎖して、誰の言うことも聞きません、という構えを露骨に示しながら、何も学習せずに、数年前の同じ記事をコピペして、福音伝道しているつもりですか。いったい何なんですか。
 
>神というパートナー見失ってしまうと・・・涙
 
神はパートナーなのか。飼い主、創造主、ではないのか。言い方そのものではなく、この状況でそれを言ってしまう者にとってだが、肩でも叩いて、がんばったね、と互いに言い合う仲なのか。
 
>神は全知全能な方。聖であり、義であり、愛である方だから!
 
懲らしめの主を、忘れている。こういう人は、被害者意識に固まって、すべての艱難を人のせいにする。内省の欠如した人の信仰観は、大方こうなる。そこを堂々巡りして、同じことを繰り返しながら、言葉も思考も情感も失ってゆくだろう、というより、失ってきた自分に気づかないのだ。
 
>罪人という的外れの神なきさすらい人、
>カインの末裔という罪人になってしまうんだよね。
 
人の言葉を持ってきて、悪い奴め、と言っている対象から、自分だけは除外しているのは、元牧師という体面を守るため、その体面のために、牧師どころか、キリスト者でさえなくなっている。
 
>でも神は愛を見失ったさすらい人、愛のパートナーを探し求めて、
>イエスをおつかわしになられたんだよ。
>すべての人がイエスによって愛のパートナーである神を再び見出し、
> 神の愛のパートナーとされて生きることができるように!
 
イエスによって愛のパートナーを再び見出す、と書いているが、そのキリストの最も嫌われる偽善者になって、そのままで、何が見いだせるだろう、よくこういう文言が書けるものだ。
 
キリストは、すべての信徒を、既に見出している。再び見出す、などと、人の側の勝手を書くのは、見つけれられなくなった者だろう。それを「愛を見失ったさすらい人、愛のパートナー」と、かっこつけて表現しているが、要するに、キリストに背いた者ということだ。
 
ここで重要なことは、大方の人が、背いているということ、反逆の民であるということだろう。自分だけ、かっこつけてなどいられないのである。だから、悟ったようなことは言わずに、愚か者として、主の前に、せめて、自分の正しさを主張することだけは、してはいけない。
 
> 人が神のかたちに造られたというのは
>きっと神の愛のパートナーっていうことなんだね。
>そう、それは神のかたちであられたイエスと神の交わりでわかるよね。
 
パートナーでも、厳しい意見を言うことはあるだろう。仲よくするパートナーを信じたようだ。「愛のパートナー」というのは、愛人レベルの仲良しなのか。言葉も、ひどいものだが、「神を再び見出し」「神の愛のパートナーとされて生きる」・・いったい、誰に向けて言っている、いったい、誰に向けずに言っている。
 
「神に任せるのがいちばんなんです」と彼は、前に言った。
 
こういうことは、人として、為すべきことを、もうこれ以上は出来ないというところまで、しましたと祈った後で言うことだ。もうこれ以上無理です、と目一杯の心が祈りを捧げたときに、神の運びを期待して言う言葉だ。
 
神に任せる、ということを勘違いして、自分は何もしなくてもいい理由とするのだろう。罪と偽善を犯して、それを改める気もなくて、悔いる気持ちもなくて、このまま、何とかしてくれ、と言ったところで、何をしてきたかを問われれば、他者のコメントを、ブロックし、削除し、それも多く瞬殺し、また、あとになって削除し、批判をなかったように見せかける偽善、かつ、そのことが読者にばれないように、自分のコメントで、対応しましたと見せかける偽善、そしてそれも面倒になると、コメント欄を閉鎖して、何も聞かなくなる、そして言いたいことは言う。
 
何も聞かなくなることは、何も言わなくなることだ。それは、比喩的に、死だ。彼という死に体は、それでも、物を無遠慮に言い続ける。自らそれを選んでおきながら、なおも、一人前の牧師であるように、自分の教える立場を守るかのように、書くことをやめない。
 
書くためには、解決が必要な問題があるのに、それをしようとしない、ならば、出力だけでは、学習しませんでした、という証拠なのだから、入力もするべきなのに、それはしない。
 
入出力で人間は学習と成長が可能になるのに、それはしない。自分に都合の良い記事ばかり、自分が引用することで偉くなったような気分になる記事ばかり、転載していている。それでは、学習にならず、反省しなくてもいいという構えを強化しているだけだ。そうして、自分は正当だと言う態度を内側のみで持ちながら、外側への、特に批判者への、怨念を燃やしながら、無反応を続けるしかないのが、彼が到達した偽善の境地なのだろう。
 
こういう人は怖い。人を人とも思っていない。他者は全部、自分のために利用している。信仰の記事も、政治の記事も、自尊の快感と欲望の正当化のためだ。彼が発する、ご丁寧な記事、ご丁寧なコメント・アドバイス、彼の実態をコメントを書くことで経験してきた私としては、これこそ、恐怖である。・・神の前に罪を隠すのは偽善、・・神の前に罪を認めて、人の前に隠すのは、欺きという罪である。神の前に「牧師である手前、そこを何とか・・」などという言い訳は利かない。
 
いかにキリストの慈愛にすがっても、神の前に自らの正しさを主張する者は義とされない。
 
神の前に自らの正しさを主張しない者は、人の前に自らの正しさを主張したりしないだろう。それをすることは二枚舌の欺きという罪だからだ。
 
「先になる者」と、「後になる者」と、「行ってしまえ」と言われる者の、神の裁きは、比類なく厳密であろう。だから、神の愛も、赦しや救いも、一方で、偽善を厳しく戒める。脅しではなく、( 人よりも、この世よりも、悪魔よりも、) 神を恐れよ、という言葉は真実である。むしろ、これが、頼もしい救いの根源と言っても過言ではないだろう。
 
 
(2016年08月02日、同日一部修正)