理屈を誇る者
 
 その名は不思議
 「誇るは十字架のみ」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27642605.html
 
 
これは、転載記事ですが、良い記事なので、私も引用させていただきます。
彼は、何故この文章を転載したのでしょう。
 
「引用始め:
 
 私たちは果たして、神の御前に出る時、どのような思いでいるのだろうか。自分を誇る者としてか、いやいや、私から何の良きものが見いだされるだろうか、とするのか。
 
 イエスは自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、こんなたとえを話された。パリサイ人と取税人を登場させて、こころのあり方を点検するように。
 
ルカ18:11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」 
パリサイ人は自分丸出し、肉にある者だ。神は自らを低くして、へりくだる者を喜ばれる。パリサイ人はことばとしては感謝を現しているようだが、自慢話を神に宣べているだけ。
 
 私たちはこんなことばを聞いたなら、なんてひどい言葉だと、思うだろう。けれども、この世は私の経歴はこんな立派、こんなことが出来る、と自己を主張したり、手柄をラッパのように長く吹き鳴らすことなど、力を持つことを良しとし、力があることを自慢するように教えられて生きている。
 
 パウロは実際にパリサイ人であったとき、正しいことをしていると誇り、キリスト者を追い回し、捕まえ、投獄し、死にも至らせていた。その功績を自慢さえしていたほどに。後に、義とされて家に帰った一人とされている。
 
 自分の力、考えに頼る人は、結局は自分の限界が分からないし、知ろうとしない。限界が来ているのに「いやいや、まだ大丈夫。何とかなる。」と、自分を改善しようとする傾向が強い。だけども自分が弱いことを知り、それを認めるところから新しい世界が開けて前進することが出来るのじゃないかな、と思う。
 
13取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
 
 一方で、取税人は祈るために宮に来たけれども、神の御前に立ったとき、それができなかった。自分が欠けのある者、愚かな者、神に喜ばれることなしと認めて、ただ神に頭を下げるしかない、恵みなどムリでもあわれみは受けられるだろうと、すがって、うめくしかできなかった。
 
 人間の弱さ、自分にしがみつき、自分を守ろうという姿勢はどうしようもない、避けることができない。キリストが十字架にかかって終わらせなければならないほどだった。
 
 神が求められているのは、こんな私にはあなたが必要だと、神の御前に自分を投げ出す者を。それで、イエスは言った。
 
14あなたがた言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
 
 取税人があわれみを乞うたゆえに、神に良しとされたということではない。十字架につけられし犯罪者がイエスに願ったように、行いによらず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められただけ。誇るは十字架のみ。
 
 :引用終わり」
 
 転載元: 生活の中の聖書
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/33531151.html
 
 
私が気になったところ:
 
>取税人があわれみを乞うたゆえに、神に善しとされたということではない。
 
取税人が、弱さと悔いを示さず、赦しを乞わないストーリーで、神に善しとされた、と語るだろうか。
 
>十字架につけられし犯罪者がイエスに願ったように、
>行いによらず、ただ、神の恵みにより、
>キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
 
ここは、十字架とか贖いとか、新約からの教理的なものは、まだ生まれていない頃だし、教理的なものにこだわるより、私としては、ただ、イエスが、罪びとの救いのために遣わされた救い主キリストであったから、と受け取ります。罪の贖いなどの教理が生まれたのは、もっと後の解釈でしょうし、解釈の理屈である教理より、キリストが伝え、施したのは、愛であります。
 
教理や贖いや奇跡のみを、何よりも喜ぶ者がいるので、ここの表現は好きじゃない・・
 
>価なしに義と認められただけ。
 
「・・だけ。」で済ませるには、あまりに大きな話です。私が信仰の芯と呼んでいるところに触れる話です。キリストに救われ、赦され、癒やされ、義とされたのは、十字架上の犯罪人も、パンくずを求めた女性も、サマリアの女性も、みな同じように、正直に弱く低い立場から祈り願った結果なのです。ここが、祈り願う姿勢において、パリサイ人と全く違うところなのです。
 
>誇るは十字架のみ。
 
これだけだと、本当に十字架を誇る、つまり、自説の教理と贖いと奇跡を誇る、つまり、取税人がどうであったかに関わらず、キリストは、罪を贖うために使命として、罪のどんでん返しを起こして義とする・・という奇跡話だと思う者もいるでしょう。
 
そういう者は、十字架を誇るのですと、意味も分からず、やたら言い出すかもしれません。これを転載したのは、
この
「十字架につけられし犯罪者がイエスに願ったように、行いによらず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められただけ。誇るは十字架のみ。」
という
人間の情感を含まない硬質な教理的文章だから、ではないかと思います。「神の恵み」は情感を含む言葉のようで実は、人間からは遠い超常の賜物を示す言葉として受け取っていることが多いです。神からだから、すごい恵み・・と言うことと大して変わりありません。彼は、こういう断定を、好みます。人間の情感とか、温もりとかには反応できないのでしょう。情感?反応?人間性?共感?、そんなものじゃない、と言うみたいに、否定する者もいます。そういう心性は、教理には辻褄を合わせて頷くが、人間の情感を汲み取れないということになるでしょう。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:10「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 18:11パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 18:12わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 18:13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 18:14あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:10-14、新約聖書)
 
十字架の贖いと言えば救いの教理として覚えている人が多いでしょうが、ここに実感を与えるのは、誇るべき何ものも持ちえず、告白して赦しを乞うしかないほど、砕かれた人間の心であり、それに反応するキリストの愛の心なのです。それを抜きにして、いかなる教理も無意味です。
 
キリストは、罪を贖う使命だからと、そこから直に、超常の決定をして義としているのではありません。取税人の姿勢と態度と言葉から、その心を見出せるように、そこに、神の前に相応しい人間の姿を、話として語ったのだろうと思います。そのように、人間と神は、反応し合う関係です。キリストは人間に反応している、ということなのです。教理の理詰めだけで動き奇跡を施す役として地上に来ているわけではないのです。教理は解釈に過ぎません。大事なのは、救いという熟語ではなく、贖いという言葉でもなく、神と人間の、心なのです。
 
総じて人が、信仰を説こうとするなら、大事なのは、人間の心のありようです。教理を何百何千回唱えようと、いかに讃美を繰り返そうと、教理漬けの仕組みを繰り返すような、心のない文章は、それこそ、パウロが言うように、騒がしい鐃鉢に過ぎません。
 
 
(2016年08月19日、同日一部修正)
 
頷く(うなずく)
鐃鉢(にょうはち、打楽器とも訳される)