鐃鉢(にょうはち)
  
     ・・・パウロの愛の讃歌
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:1たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。 13:2たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。 13:3たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
 (1コリント13:1-3、新約聖書)
 
騒がしい鐃鉢のような言葉を繰り返して、一方で、自らの罪も偽善も省みることのなく、都合の悪いこと一切を隠し続けることを批判してきました。
 
騒がしい鐃鉢のようでない言葉とは、どういう言葉でしょうか。文才を問われているのではありません。書いてあるように、愛と言ってよいでしょう。しかしそう言われても、いつも愛の言葉を語ってはいられない、だいたい、そういう言葉をよく知らない・・と言う私のような人もいるでしょう。ここで言う愛は、神から来ています。しかし、書かれている愛は、人間にも了解できるところの愛だと思います。何故ならキリストは、今、人に、すぐには分からないと知りながら、御心を宣教しましたが、一方で、二千年後の私たちが読んでも、心に響くような語り方をして、ご自身の存在を忘れさせないような言葉を語りました。ゆえに直接キリストの生前を知らないパウロの、愛の讃歌につながるのです。愛とはその言葉に込められているものなのでしょう。
 
打楽器である鐃鉢は、それだけでは、いつも同じ音を立てます。だから、やたら鳴らしても、騒がしいだけでなのしょう。打楽器は、演奏する者の手によって、時々に様々に調和するとき、美しい音に生まれ変わるでしょう。演奏するのは、ここでパウロであり、また、聞き手である私たちでもあるのです。いつも同じことを言っておれば、讃美になる、信仰になる、ということでは決してないということです。折に触れて、私たちは、様々な心境で、信仰を考えます。私たちは、安穏とした境地に固定されてはいないからです。そのようなことを信仰は教えてはいないからです。
 
何故なら、私たちは、この地上で、生きているからです。移り変わる外界と人間関係の中で、様々に反応しなければならず、また、祈ることも様々となり、神と人との関係である信仰も、生きて、新しくなってゆきます。神は変わらない、しかし、人は変わる。
 
激しく変わる地上に生きて、心が変わらないということはなく、また、言葉の示すものが変わらないということもないのです。同じ言葉に、いつも感動し続けることには無理があるのです。ゆえに、人は不全であり、人は罪人であり、ときに罪を犯す。罪を犯す前と後、という変化の中に生きているのです。それは、そのまま、祈る前と後、という変化の中に生きていることでもあります。
 
たとえ同じ言葉を語っても、すべてが同じにはならないのは、このためでしょう。同じではないのです。変わってゆくことで、私たちは成長しなければいけないのです。そのためには、聖句を見て、好い気持ちになることばかりではなく、人を見て、自分を見て、必ずしも美しくなく、好い気持ちにならなくても、そこから信仰の歩みは、日々新たに始めるのだと思います。だから、心をいつも、新しいものを受け入れられるように、修正可能にしておくことが必要なのです。
 
キリスト者は、神が与える平安を、神が与えるのだから、ゆるぐことのないもの、不変のものと思いがちです。しかし、どうでしょう。昔、救われたから、そのときの平安をとどめようとして、とどまるものでしょうか、否です。今は、今の平安を求めているのです。これを勘違いすると、昔のまま、変わらないものを求めて、言葉のみでの確認行為に走り、今、受けるべきものを見過ごしてしまうでしょう。かたくなに拒否してしまうかもしれません。
 
ひょっとして修正可能にしたら、せっかく学んできたキリスト教から離れてしまうのではないか、と不安になる人があったら、考えてみましょう。修正可能であれば、間違えても戻ることも出来るのです。一方、修正不能の人は、進むことも戻ることも出来ないということです。修正可能は、どこへでも進めます。もちろん間違えることもあるのですが、正す方向へ進むことに何の障害もないのが修正可能なのです。修正可能は自由であり、修正不能は常に束縛の中にいる、ということです。
 
 
パウロは、旧いユダヤ教から、キリスト信仰に改宗した、元迫害者です。なぜ、パウロは、そのような、人生を180°変えるような、決断をしたのでしょう。パウロは、神からの神性を持っていたかどうか、私には分かりません。しかしパウロは、人間としての豊かな感情と感受性を持っていたような気がします。彼は、パリサイ人である自分に、騒がしい鐃鉢を感じ、愛を感じなかったのでしょう。むしろ殉教をも辞さないキリスト信仰に愛を感じたのでしょう。その根源はキリストでした。パウロは、騒がしい鐃鉢のような神性を信じることよりも、愛という、人間が共感できる神性を信じることに自分の生涯を捧げたのではないでしょうか。
 
だから、現代でも「人々の言葉や御使たちの言葉を語」るだけの人はいるのです。「知識とに通じて」いるだけの人もいるのです。パウロの心情を察するならば、それらの人々に、パウロは、愛を感じることがなかったということです。
 
 
※ 
 
修正可能にするとは、どういうことかというと、何か疑問に対して、例えば、「・・というように伝統的には解釈されているようですが、一緒に考えてみませんか。」という冷静な言い方をすることであります。そのとき、伝道者は、相手を説得するのが目的ではなく、本当に共に考えてゆく姿勢がないといけません。福音伝道はそうでなければいけません。
 
そういう澄んだ光を返す代わりに、「・・ということですね!」「・・は、ただ感謝だけですね!」というような、決めつけの断定を繰り返して、脂ぎった眼と顔をじわっと寄せて、さらなる疑問を抑えつけたりしないことです。
 
疑問は、ともに考えることで、信仰の糧となる可能性があるからです。ひょっとしたら、その人と出会ったのも、偶然ではないかもしれないからです。御心は測り難いのです。
 
 
(2016年08月21日、同日一部修正)
 
鐃鉢(にょうはち、打楽器、シンバル、とも訳される)
奥義(おうぎ)