彼の嘘
歴史の真実
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27650973.html
2016/8/23(火) 午前 7:34
多くの信仰者は、信仰を神中心に考えます。
存在の位格は、神中心ということになります。
神は全能者で創造主、私たち人間は全能ではない被造物、
と信じているからにほかなりません。
にもかかわらず、神中心に信じようとする人々は、
聖書について、自分の、または、教えられた解釈によって、何故か、
神は・・、と神について述べて、だから人は・・、と言うのです。
何ゆえ、神は・・を、人が決められるのでしょうか。
何ゆえ、神は・・が、人に分かるのでしょうか。
分からないことを分かったと言うのは不遜ではないでしょうか。
それで、私は、分からないものは分からないこととして、
分かることから、信仰を理解してゆくことを書いてきたのです。
人間に分かること、それは神ではなく、人間に関することです。
人間について、出来る限り、明らかにすることで
人間が信じる神についても、示唆を得ることが出来るだろうし、
それ以上の神のことについては、神の秘密、すなわち神秘として、
人間が云々して、決めつけてはならない、という立場です。
今回のシャローム氏の記事は、
あるところまで、まともなことを書いておきながら、
結局、そこからすっ飛んで、自分の独善的解釈と信条に持ってゆく
という、理路も道理もない詭弁で、自己矛盾と混乱を招いているだけです。
こういう人は、出来るだけ早く、信仰を語る立場から離れてほしいです。
>聖書の中で、福音書はその霊的な意味を語る以上に
>歴史的な事実としてのイエスの十字架の死を明らかにしています。
>ということで、わたしたちもイエスの十字架の死について語る場合、
>福音書と同じように、その歴史的な事実を明確にする必要があります。
>それを曖昧にしたままで、霊的な真理だけを主張するなら、
>初心者の側から見れば、何かの独断的な教えの押し付けと見られるかもしれません。
まさしく、彼は独善的な教えを押し付けてきたのです。
彼は、歴史的な事実を明確にして・・というが、
実際は、明確にしたつもりでと、彼が主張することで、
いったい、歴史の事実のどこが、明確になるのでしょう。
ここに見られるのは、彼、シャローム氏の、
自分は歴史を明確に出来る、という、全能感だけなのです。
恐れを知らぬ傲慢は恐ろしい、という証拠であります。
人間が生きるために必要なのは、過去の事実ではありません。
今生きている人間を、導き助けてくれる働きです。
それは過去の事実によっては齎されません。
私たちは、心と体を持って生きています。過去ではなく現在が必要です。
その働きは、霊的真実によってのみ齎されるでしょう。
霊的というと誤解されやすいかもしれませんが、
また肉体や物に奇跡が起こらないとは誰も言えませんが、
肉体や物に起こる奇跡だけで、人は救われたことになるのでしょうか。
人が、神に似せて造られたところの霊的な被造物だとすれば、
人を本当に救い導き生かすのは、魂に起こる奇跡だと言いたいのです。
紛らわしいなら、心に働く真実のみが人間を生かすと言ってもよいと思います。
霊、魂、心、精神、これらを、人は明確に区別できません。
区別できると言う者は、大方、教理か魔術の言葉を振り回しているに過ぎません。
霊的以上に史実を求める者は、霊的な働きに感受性を持たないのかもしれません。
ずっと、彼、シャローム氏の言説を見てきて、そんな気がしてなりません。
>歴史とはだれかが過去の出来事を書き残したものですが、
>その時代の勝者、支配者、権力者によって書かれたものということができるでしょう。
>ですから、その歴史認識はその時代の敗者、被支配者の歴史認識とは異なったものです。
>もし時の経過によって、過去の敗者、被支配者が勝者、支配者、権力者になった時には、
>過去の勝者による歴史認識を修正し変えようとするのです。
>そのようなわけですから、私たちが歴史として伝えられていることは
>決して過去の事実そのものではないことを知る必要があります。
ここまで、まともなことを宣べているのです。
聖書を、そのまま歴史とみるか、歴史の宗教的解釈とみるか、
前者は、史実信仰であり、歴史が信仰対象となっています。
そうなると、
私たちの信仰は、二千年前、もっと前の、史実に依存することになります。
後者の立場、歴史的事実を含んだ宗教的解釈と見るべきです。
>ある人は、そのような証言、証拠が過去の事実を証明するものだと信じ、
>過去の出来事や事実がそうであったと信じようとしますが、
>決して事実そのものではありません。
そうなのです。しかし、彼は、すっ飛びます。
>従って、如何なる人も普遍的な正しい歴史認識を持つことはできない存在なのです。
>この世界と人を創造され、歴史をも支配しておられる生ける神のみ手の中にあり、
>正しい歴史認識をご存知であり、正しい裁きを行われるのです。
何故か、ここで、彼は、神の正しさを並べ始めます。
神は知っている、というのです、確かに神は知っているでしょう。
しかし、彼が、歴史的事実を明確にすると言ったのです。
これは、取り方によっては、我は神なり、と言っているようなものです。
彼は、神が自分に啓示してくれた、と言いたいのでしょうか。
自分が特別な体験者または預言者だと言いたのでしょうか。
彼の罪と偽善と隠蔽という卑怯な真似の累々たる実績が
それを、意地悪く笑って、否定しています。
信仰は、生きる理由にはなるでしょう。生き甲斐にもなるかもしれない。
しかし信仰は、決して、個人の王国にはなりません。
>イエスの誕生、生涯、死、よみがえり、聖霊の注ぎと働きによって
>成就された私たちの救いは自分の民イスラエルの歴史のなかで預言されていたことであり、
>生ける神の計画であったことを聖書は証言し、今も支配し、証ししておられるのです。
彼は、聖書が歴史的事実だと言う根拠を聖書に求めています。
ここまで自己矛盾を来たすと、
どうでしょう、彼が最初に述べたことを
彼自身が、無にしているではありませんか。
どういう頭と心があれば、こういう説明が可能になるのでしょう。
なんだか、何らかの病理を考えたくなるような言説になっています。
>では、なぜ、そのような生ける神がこの世界を創造し、支配しておられるのに、
>この世界には不正や悪や不平等や争い、戦争があるのかとだれもが疑問を持ちますが、
>それは生ける神を畏れることのない私たちの罪によってもたらされ、
>生ける神の愛による支配、裁きの正しさの確かな証拠なのです。
そして、とても繊細な問題について、
災いは、人間の罪によってもたらされ、
それが神の愛による支配と正しさの証拠という、
文法か理路を間違えたのかと思える話に帰結させようとしています。
言い間違いにしても、度が過ぎると言うことでしょう。
勘違いとも受け取れますし、舌足らずとも言えそうです。
罪について、その救済について、すっ飛ばしているのです。
信仰の中心を、すっ飛ばしているのです。
彼は、キリストによる罪の贖いのことをすっ飛ばしてしまいました。
それは、既に知られているから、書かないだけ、と言うなら、
彼が述べる教理的文言は、彼独自の赦されて罪はなくなり
啓示を受けたとかの聖化的な独善以外は、既に知られているものばかりです。
信仰を言葉の上っ面だけで信じてきた者は、言葉が整わないと
めんどくさくなるのでしょうか、あと詩篇を載せて、誤魔化しています。
このような素っ頓狂な説教が、神を信じようとする人々に、余計な混乱を招き、余計な先入観を植え付けているのです。だから、もう書いてアップして見せることは、やめてほしいです。
彼の書き方は、一つの提案ですが・・という、そっと差し出す、という、謙虚さがありません。いつも、教えを垂れる立場から断定的に物を言ってきます。それが、彼の偽善の大きな原因であり要素なのです。
彼は「どうでしょうか」という書き方をしても、「こうだと思います」に対する、さらなる説明が出来ません。はぐらかしてくるだけです。「おかしい」と異論や疑問を呈したら、断定を繰り返すだけで、答えるだけの洞察力も聖書の読解力も持っていません。その果てには、啓示だから、と言い、神格の特別な友としての自分を出してきます。
罪と偽善を平気で犯し、それを平気で隠し、表面上、整っているように見せかけてきたのですから、彼は、神の言葉にも、人の言葉にも、真摯に向きあう姿勢を持ちません。めんどくさくなると、上のように、放り投げて、あとは神に委ねました、とでも言うつもりなのでしょうか。ならば、書かないで、最初から、神に委ねるべきだ。
詩篇を引用していますが、解説がありません。これが彼のやり方です。
全部をここで引用するのは、やめておきます。いくつかについて・・
119:69
高ぶる者は偽りをもって
わたしをことごとくおおいます。
しかしわたしは心をつくして
あなたのさとしを守ります。
彼は全く守っていない偽善者です。
119:71
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
これによってわたしはあなたのおきてを
学ぶことができました。
彼にとって苦しみを避けることが第一でした。
そのために、信仰によるのではなく、
コメントをブロックし、削除し、都合の悪いところを隠して、
ひたすら、自分に都合の良いコメント欄を捏造してきました。
119:74
あなたを恐れる者はわたしを見て喜ぶでしょう。
わたしはみ言葉によって望みをいだいたからです。
神を恐れる私は、彼を見て怒りました。
彼は御言葉を疎かにしているからです。
119:75
主よ、わたしはあなたのさばきの正しく、
また、あなたが真実をもって
わたしを苦しめられたことを知っています。
こういうことに、可能性としても、
彼は全く気付かない人です。
119:78
高ぶる者に恥をこうむらせてください。
彼らは偽りをもって、わたしをくつがえしたからです。
しかしわたしはあなたのさとしを深く思います。
彼の信仰は、根深い怨念を力としています。
彼は、偽善と隠し事が御心に適うかのように、高ぶっています。
彼は偽りを持って、私を侮辱し去らせようとしました。
119:79
あなたをおそれる者と、
あなたのあかしを知る者とを
わたしに帰らせてください。
神を恐れない彼を
どうか人々のもとに帰らせないでください。
119:80
わたしの心を全くして、
あなたの定めを守らせてください。
そうすればわたしは恥をこうむることがありません。
彼は、恥をこうむることを最も嫌い、
偽りの善を立てて
すべての訪れるものを騙してきました。
それを悔いることもなく
ひたすら隠して
代償行為のように
やたら神をほめたたえているのです。
神の前に、正直でなく隠し事があり、人の前で高ぶるものは、信仰者ではない
神の前に正直で、弱く低き者という立場で祈れば、それは立派な信仰である
彼の、過去の類似した記事:
日本の七奪(2010-04-05)
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26534397.html
2015/4/9(木) 午前 11:40
歴史の真実
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26497001.html
2015/3/25(水) 午後 10:58
※
私は、
私の無意識に働きかけるものを
神だとも、聖霊だとも、
悪魔だとも、誘惑だとも、
自分自身だとも、気の迷いだとも、
分からないので、決め付けることはしません。
(2016年08月24日)
齎す(もたらす)
累々(るいるい)
捏造(ねつぞう)
素っ頓狂(すっとんきょう)
覆す(くつがえす)
騙す(だます)
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