カルト放置の危惧
 
 「信仰は神キリストとの個人的な結びつきが基本」
 
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  2016/8/24(水) 午前 9:51
 
 
彼、シャローム氏は、また他者のブログを転載して、自分を正当化したいようです。
 
ヨハネによる福音書の最終章です。適当に改行と段落分けをしています。
キリストの決意と、弟子たちの無理解が、表されているようです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
21:15
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16
またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17
イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18
よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19
これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
21:20
ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
21:21
ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
21:22
イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
21:23
こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
21:24
これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。
21:25
イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。
 (ヨハネ書21:15-25、新約聖書)
 
20~21節について、引用記事は、次のように受け取っています。
 

肉にあっては他人の行動、行末などは、いろいろ気になるところ。だが、他人には他人の道が備わっている。それぞれに賜物が、使命が違う。イエスのなさる私たち一人ひとりの最善への方法は、これまた違う。
 
信仰は競争ではない。信仰は神キリストとの個人的な結びつきが基本の姿。一人ひとりがまずイエスに従っていく。イエスに一つとされていく。その集合体がエクレア呼び集められた者の群れとなるし、なっていくからだ。

 
エクレアはお菓子しか知らない、エクレシア(教会、ギリシャ語)か・・。
 
前から言っているように、聖句というのは、解釈次第で、カルトなどに悪用されるということです。人の信仰をとやかく言うな、自分の信仰だけ考えていろ、余計なお世話だ、自分は自分の信仰だけ考える、という目的に、都合よく引用する者もいるわけです。
 
私は、彼、シャローム氏の、世話をする気などありません、自分の信仰を考える上でも重要だと思うから批判を続けています。彼は、偽りのコメント欄によって自分を飾る偽善者であり、悔い改めもしない隠蔽の偽善者であり、彼の信仰は、偽りの信仰、偽善者の信仰、迷惑かつ有害だと思うから、他の人々が巻き込まれないように、反対意見があることを知らせる努力を、できる範囲でするべきだ、という判断です。
 
聖句の、ペテロの発言「どうなのですか」は、個人的な関心か興味本位だと、キリストは見なしたのでしょう。なお、この場合は、キリストがそばにいて、従って来なさい、と言っているのだから、するべきことに迷う必要はない状況です。私たちは、例えばネットでは、どうでしょう、事情が違います。相手は、目の前にはいない、かつ、キリストも目の前にはいない、という状況では、当座の是非の判断は、人がするしかないことです。
 
さらに、ペテロの問いと、例えば、この人は間違っていて、偽善者だと思いますが、いかが思われますか、それでも、自分の信仰だけ考えているべきでしょうか、という問いとは、質が異なります。こういう問いは、個人の興味本位ではありませんし、中身も複雑ですし、誰が、どういう手段を選ぶかについて、一般的な指針は成り立たないのです。
 
ここで、例えば、偽善者に対しては、キリストが、神が、何らかの手を打つはず
・・という答えを当てるなら、これは、ますます、おかしなことで、
 
何故なら、そういう場面は、実際にはなかったのだから、ない場合のキリストの判断を、
キリストなら・・はず、とキリストの意思を前提に言うことは、人には出来ないからです。
 
人が何の手も打てないときには、あるいは、その段階では、神に任せるしかありません。問題が、既に言論を超えて、実行力や強制力というところに至ると、恐らく、打つ手はないでしょう。
 
しかし、取るべき、言論、という手段があるのに、神に任せる、委ねる、ということを、主張するのは、むしろ、自分が楽な道を歩みたいからでしょう。
 
このように、欲望や誘惑というのは、あらゆる人間の心の隙間に、入り込むものです。取り分け、その大きな隙間は、驚くべきことに、善の心なのです。まことに、人は、善意で、気遣い、遠慮して、見逃してしまうのです。人の心は、深みを見ることが苦手で、善の表層を漂うのです。
 
ですから、人は、自分のやっていることに恐れを持たなければなりませんが、自分が安全地帯にいて、他者の批判に枷をかけるような言動は、善意による悪または偽善となり得ます。
 
指摘するのはその気のある人、裁くのは神、このけじめを弁えるなら、指摘することは、つまり批判することは、いかに辛辣であっても、ストレートであっても、修正可能な、悪と罪ということになります。だから、祈りは欠かせないことを付け加えておきます。
 
 
また、この聖句を、人のことは気にしてはいけない、という意味で確定するならば、キリスト者は、人には無関心であるべきだ、ということになり、何事にも人を放っておくということになって、社会問題などにも無関心ということになって、これも、おかしいと言うことになります。そうすれば、互いに褒め合う以外の、交流はなくなり、教会は社交場と化してしまって、正しい信仰を求める志さえも、見られなくなるでしょう。そして求道者は、教理の押し売りで、幻滅して去ってゆくのです。まさに、これと同じようなことを、彼、シャローム氏は、してきたのだと思います。
 
教会でも、教会外でも、偽善者を、偽善者のまま、受け入れるキリスト信仰は、あってはなりません。それは、信仰が、偽善を認めることに他なりません。偽善の手段としての虚偽や偽証をも認めることに他なりません。
 
 
>信仰は競争ではない。
 
> 
イエスが言われる「他人のことはいい。それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはただ、わたしに従いなさい。」に応答すること。

 
「他人のことはいい」というのは、聖句なのですか。キリストの言葉でしょうか。
そうでなければ、うがちすぎ、ということになります。
 
私の場合、競争で書いているのではない。
また他人のことを興味や関心だけで言っているのではない。
これは、言論による闘いなのです。
彼にも告げていますが、彼と彼の言論は、私にとって、生涯の敵なのです。
 
信仰に見合う低さを、持っているとは思えないようなことを彼はしてきたし、
今もしているということです。
誰も、彼に影響されたり、巻き込まれたりしないように祈っています。、
 
>イエスは自分と神との関係の有り様を見つめよ、と言っている。
 
それをする気がなく、同じことを繰り返しているのが、彼、シャローム氏です。
 
信仰は、神との個人的な結びつきが基本ではありますが、他者がどんな信仰を持っていても、放っておけばよい、というのは、教会でも、教会外でも、無責任です。それは、私が前から書いている批判禁忌の不文律に結び付きます。実際、その不文律は常識のようになっており、そのために、教会は、カルトの温床になってゆくでしょう。果ては、これがキリスト教か、と思うような宗教になってゆくでしょう。この記事のタイトルは、それを、こともあろうに敬虔と柔和の精神から、正当化してゆくことになりかねないと思います。また、聖書と聖霊だけに没頭して、人の言うことを聞かない自己満足を勧めることにもなるでしょう。
 
厳密な正しさは、神のみのものですし、神が正すでしょう。しかし、人間は何もしなくても、何もかも、神に任せて、うまく行くと言う考え方に結び付けば、怠慢を勧めることにもなるでしょう。神と人間は、双方向で、反応し合う関係であることは、聖書を見れば明らかです。もし神から人への単方向だけだとしたら、祈る必要も、交わる必要も、なくなるでしょう。そういう本質はあり得ないのです。神が道を備えるのは、人間の反応を待ち、人間に反応するためとしか考えられません。それが嫌で、自説に凝り固まっている者にとってのみ、こちらが何もしないで神に任せることを善しとしてしまう信仰の考え方は、敬虔を装って勝手な信仰を吹聴する向きに、好都合この上ないのです。
 
彼、シャローム氏は、まさに、自分と異なる意見を一切聞かなくなってしまった自分を正当化するのに、好都合この上ない記事として、この記事を転載していると思われます。今となっては、彼には、そういう姑息な手段しか残されていないのでしょうか。彼と異なる意見が、彼にとって、望ましくないならば、彼は、いくらでも、反論の機会があるのですが、彼は、人の話を聞くことをやめて久しいためか、批判に対して、悪意ある嫌がらせと、病気と決めつけたりとかの、相手に対する根拠のない決めつけによる侮辱しか、返せなかったのです。それでも、自己の非を認めず、共感を否定し、なお、コメント欄閉鎖によって、言いたいことだけを言う、という環境を作り上げて、自分の平安の王国に居続けたいようです。何も聞かなければよい、という短絡が、何の解決になるでしょう。そうまでして、キリスト教の先生と呼ばれ続けたいのでしょうか。もしそうなら、その段階で、キリスト教の先生としては失格だと思います。
 
 
 「信仰は神キリストとの個人的な結びつきが基本」
 
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  2016/8/24(水) 午前 9:51
 
 

※ 教会について、(ウィキペディアより)
ギリシャ語の「エクレシア(ἐκκλησία)」の訳語で、「人々の集い」の意味から転じて、キリスト教における信者の集まりを意味する語である。この語は「公同の教会」、または単位となる信仰共同体を指す意味で使われ、プロテスタントの教会ではキリスト教会(キリストきょうかい)という呼称・名称もよく使われる。また、「エクレシア」の訳語ではないが、信仰共同体である教会が所有する宗教施設(教会堂)を指す意味および名称として使われる場合もある。
 
 
(2016年08月24日、同日一部修正)
(2016年08月25日、一部修正)
 
隠蔽(いんぺい)
褒める(ほめる、誉める)
志(こころざし)
枷(かせ)