罪の言葉だけ
 
 カインの末裔
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27657523.html
 2016/8/27(土) 午前 10:23
 
 
彼、シャローム氏が、ようやく罪についての記事を書いたか、と思ったら、やはり前に書いた記事のコピーのようです。他者を断罪し、自分を責めない筆致は、そのままです。
 
 (創世記、口語訳、適当に改行を入れています)
4:1
人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。 4:2彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3
日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 4:4アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。
主はアベルとその供え物とを顧みられた。 4:5しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
4:6
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 4:7正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
4:8
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。
4:9
主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。 4:10主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。 4:11今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 4:12あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。
4:13
カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。 4:14あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。
4:15
主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。 4:16カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。
 (創世記4:1-16、旧約聖書)
 
 
創世記の話は、福音書のようにすんなり入って来ない難しいところがあります。人類最初の殺人事件と言われ、多くの作品に引用されているところの、ここもその一つです。
 
2つの大きな疑問があります。
1.なぜ神は、カインに冷たかったのか。
2.なぜ神は、弟を殺したカインを殺されないようにしたのか。
 
聖書日本語口語訳には、文章としては、はっきりした理由は書かれていないようです。
ネットでも、様々なことが書かれているようです。
 
1.について
聖書本文には、神がカインを義としなかった理由が、言葉としてはっきり書かれてはいません。正直言えば、正解は、分からない、ということになります。そこに立ったうえで、こういう場合、書かれていないところを、推測した解釈として、示す、つまり、こういう解釈はどうでしょう、という書き方は可能です。
惜しむ人だった、妬みがあった、性格の違い、などが推測されているようです。
カインは「地の産物を持ってきて、主に供え物とした」
アベルは「その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。」
アベルは、選んで主に捧げた。つまり、極上のものを選んだのではないか。それだけの心があった。しかし、カインは、選ばずに、これくらいでいいだろう、という捧げものだった、という解釈があるようです。
 
2.について
これも、聖書本文に、その理由は書かれていませんから、推測になります。
神は、カインとその一族及び末裔に、消えない呪いのような刻印を刻んで、生きて報いを受ける者とされた。・・・という解釈、どうでしょう。
あるいは、逆に、神は、カインが悔いているのを見て、赦した、あるいは、それなりに赦した、という解釈もあるようです。
 
私は、上に書いたように、分からないことは分からないと言い、保留することが大切だと思っているので、前に、分からない箱、疑問の箱、おかしいと思う箱、などに入れることを、書いたような気がします。私は、こういうとき、一番大事なのは、良い解釈を見出そうとすることより、分からない正直な自分を大切にして、神に捧げることだろうと思っているのです。そのうえで、人の書いたものを、ネットもありますから、読んでみる、ということです。
 
いろいろな解釈があるようですが、自分の解釈で、出来た、と思って、人に聞かれるたびに、これが正しい、と主張しているところから、独善は生まれてくると思います。解釈は、解釈に過ぎない、という扱いを知るべきで、そっと差し出す謙虚さ、ということは、前にも書いたと思います。
 
分からないと言えない者が、無理やり、呑み込んで、分かったことにしてしまう無理な信仰と、それを固定してしまって、分かっている人のつもりで、いつも人前に押し出してくるという傲慢が見えてきます。
 
 
>なぜアベルのささげ物が神の目に良いものであったかは明らかです。
>それはカインのささげ物は自分の汗の結晶、手のわざであり、
>アベルのささげ物は信仰のささげ物だったからです。
 
と書いて分かったことにしてしまう者もいます。一番大事なことは、解釈は、決めつけてはいけない、ということです。それを、自説で、決めつける、シャローム氏の筆致に注目してください。
 
>神はイエスを私たちの罪のあがないの犠牲の神の子羊として遣わされ、
>アベルが羊をささげたように、ご自分の命を、私たちの罪の支払うべき代価として、
>十字架という祭壇にささげてくださったのです。
 
>アベルは神の前に自分の罪に気づいていましたので、
>自分の努力と汗の結晶である手のわざである最上のささげ物をもってしても、
>神のみ前に立つことが出来ない罪人であることを知っていました。
 
>アベルは神の心にかなう献げ物は何よりも自分の罪を認め悔い改めの心を表す
>献げ物であるであることを知っていたのです。
>ですから自分の罪のあがないのための犠牲として羊をささげたのです。
>これは聖書全体を貫くメッセージであり、イエスの十字架の犠牲をあらわしています。
 
創世記に込められたものを解釈するのに、新約聖書の十字架を引用したいようです。創世記の著者は、新約聖書を知っていたでしょうか、もちろん知らなかったでしょう、という無理がありますが、全能感に浸っている人は、解釈にも手段を選ばず、長い手を伸ばすのでしょう。
 
>さて、カインとアベルの二人の兄弟の性格の違いは、
>ふたりの名前に暗示されているようです。
>カインが生まれたとき、エバは「私は主によって・・・得た」といい、
>最初の息子をもった母親の喜びと誇りをうかがうことができます。
>ところが二人目の息子にはアベルという名をつけています。
>アベルとはへブル語で“息・蒸気”という意味があり、“むなしさ”を意味しています。
 
名称や言葉の語源によって、だから、こうなった、と言えるのは、問題が、言葉の問題に限られるときだけです。心の理由を、名前に求めるのは、心のない人のすることでしょう。
 
>なぜアベルという名をつけたのでしょうか。きっと長男カインが成長するにつれ、
>アダムとエバの喜び、誇りが失望、期待はずれになってしまったことが
>推測できそうな気がします。
 
>乱暴で、すぐ癇癪をおこすカイン。そんなカインの献げ物はいつも自分の目に良いこと、
>気に入ることを一番にしているその事実を物語っているようです。
 
シャローム氏は、一貫して、カインを、生まれないほうがよかったかのような悪役として、ぼろくそに貶し、責めています。彼の、自分を悪の圏外に置く前提が、明らかになります。この前提では、罪について、彼が、人間らしい洞察を受け取るための人間の心が失われていることをも、自分で明らかにしてゆくでしょう。・・こういう解釈を喜んで声高に吹聴するのか、そうか、道理で、人間性や共感を否定して、教理話と奇跡に執着するはずだ、・・と読み取れる方向です。
 
>カインはいつも自分を認めさせようとする態度で、自分の罪を認める心がなかったようです。
>一方、アベルは自分が神の前にも両親に対しても罪人でしかない心の悲しみを抱いていました。
>その悲しみと悔い改めのささげ物がアベルの羊のささげ物だったのです。
>神はアベルの砕かれた心から献げられた信仰の献げ物を喜んで受け容れられたのです。
 
どれも、推測ですし、聖書に書いてないことを、断定しているのです。しかし、推測に過ぎない、という態度を、彼、シャローム氏は、持ちません。彼が持ちたいのは、我、神意を得たり、という高みです。これが、この解釈の是非にかかわらず、信仰のすべてを無にしてしまう、という弁えを、彼は、感じ取ることが出来ない人なのです。
 
>しかし、カインは神の心を知らず、逆恨みをして腹を立ててしまうのです。
>それはカインのアベルに対する嫉妬となり、憎しみとなり、ついに・・・殺人へと
>エスカレートして行ったのです。
>両親の間に初めて生まれた子が次に生れた妹弟をいじめたりすることは今でもよく見られます。
>だから有島武郎は『カインの末裔』という作品を書いたのです。
 
こうして、カインとアベルについての断定的解釈を完成させてしまいます。
 
>カインは殺人という罪を犯したから罪人となったのではなく、
>その心が神の心を知らない的(軌道)を外れた罪の結果として殺人を犯したのです。
 
こうやって、カインは、ものすごく性格が悪く、神に対して的外れで、まるで、殺人を犯す運命にあった、という言い方をして、だから、カインに対しては、救われようのない、先天的に近い、悪者呼ばわりする解釈が出来上がって、彼は、すっきり言ってのけた、というつもりなのでしょう。
 
彼、シャローム氏は、自分を、悪からも、罪からも、除外して、平気で、人を侮辱する特徴が以前にも見られました。机上で、言葉を転がして、知識だけから語り、人間を見る目を失っている・・。だから、偽善者でありながら、同時に福音?を書けるのです。注意してください。彼の言う「罪」は、心のない、おもちゃの言葉だけです。
 
>すべての人は自分の内なる罪の性質に気づくかどうかによって、
>カインの道を歩むか、アベルの道を歩むかが決まるのです。
 
彼は、どちらを選びますか、と言いたいような、脅迫めいた文言を、ときどき表します。
 
さて、私は、今まで、私が述べてきた多くのことを根拠に申しあげます。
彼は、彼の解釈を自分に生かしていません。上の解釈の中の
 
「献げ物はいつも自分の目に良いこと、気に入ることを一番にしている」
「いつも自分を認めさせようとする態度で、自分の罪を認める心がなかった」
「神の心を知らず、逆恨みをして腹を立ててしまうのです」
 
これらは、いずれも、彼、シャローム氏に、当てはまることだと判断しています。彼は、解釈しながら、その点にだけは、気づかない人なのです。自らを省みる彼を、彼の記事とコメントの中に、見たことがありません。彼は、自分の都合で、自分と異なる意見を、言論ではなく、強制力を使って、ブロックし、削除し、自分の失敗だらけのコメントも都合が悪ければ削除して、自分が正しく、批判が来ても、適切に言い返して退かせている、と見せかけるコメント欄を捏造しました。
 
そして、彼、シャローム氏は、自分の目によいようにと、自分を認めさせようとして、罪も偽善も認めず、罪も偽善も隠して、罪も偽善も続けて、自らを見つめることなく、決して自分の非を認めず、自分の罪を認めず、神の心を知らず、逆恨みをして、善き聖書の先生であり続けるために、虚飾の世界を見せて、今では、コメント欄を閉鎖して、それが神の与えた平安だと嘯いて、隠蔽の部屋に住んでいるのです。
 
聖書についての、どんな解釈も、なかなかはっきり肯定も否定も出来るものではありません。私としては、解釈の内容よりも、解釈を語る態度にこそ、キリスト信仰の、悲惨とも言えそうな問題が表れていると思っています。多くの解釈に、自説に満悦する態度が見られると思います。そして、そこから、解釈者の慢心と党派心が生まれてくるのでしょう。
 
信仰の正しさは、解釈の正しさではありません。キリストの目に留まり、キリストに救われた人々は、キリストを殆ど理解していなかった、そして、彼らに共通してみられることは、彼らが人間としての立場から、悔いており、低く弱く、他に寄る辺のないという心から、キリストに縋った、ということです。
 
解釈を誇る者の、何様だと言いたくなるような高慢を見るたびに、たとえその解釈が言葉上正しくても、解釈を語る態度が、それを無にすることがある、というを知るべきだろうと思います。解釈は、思考の糧となるものですが、解釈の正しさに酔いしれ、高ぶって意地を張る者の心は、とてもキリスト者とは思えないことがあります。
 
救いの筋書きや仕組みなどを言葉で表して、それをもって、あなたは、どちらの道を選びますか、と聞いてくる者は、言葉を整えることに終始して、それで満足している傾向があります。
 
聖書についても、解釈の正しさにだけ、こだわる者は、自分が、いくら人間の心を裏切ってきたかについて、無頓着で、平気でいられるから、今の状況でも、まだ自分は信仰を語れると思ってしまうのでしょう。言葉の解釈から学ぶことは、一種の理屈であり仮説であります。経験から学ぶことは、心に響いて否定できず忘れられないことです。解釈は信仰の優先事項ではありません。それよりも大切なことを学ぶ立場と姿勢を養う目的で、書いています。
 
必ずしも経験だけではなく、心を学ぶ姿勢がないと、解釈も絵に描いた餅になるでしょう。経験から人間の心を学ばないで、過去に書いたものを持ち出して、解釈だけを無遠慮に主張する者がいます。人の心が分からないのに、いったい誰に福音を伝えようと言うのでしょう。
 
言論の自由には、人間の心が必要です。解釈を語るにも、人間の心が必要です。それを弁えずに、他者を無視して、敵視するか、そうでなければ、社交で味方につけることばかり考える者は、言葉をも弄ぶでしょう。人の言葉を弄ぶものは、神の言葉をも弄ぶでしょう。そして、神をも人をも決め付けるのです。神は完全だからと、全か無かの判断しか出来ないので、断定だけになり、断定を固くすることが信仰だと思っているのです。そこには、神に自らを擬した、とても醜い非人間性が垣間見られるだけになるでしょう。
 
神の心を、紙に書かれた言葉だけで読み取ろうとする者は、どこまでも、共感も共有もないところで、聖書の表面をなぞっては、何かを拵えて、自己正当化に利用してゆきます。聖書を読むとき、聖書を読む心が必要とするのは、神の心ではなく、人間の心です。偏った興味と執念が駆り立てる、身の毛のよだつような、神の心の断定で、決めつけに走る者を警戒してください。神の心は、人の心に与える動きによって受け取るしかない不全が、この地上です。
 
 
(引用いくつか・・)
 
前にも書きましたが、私は、解釈が苦手なので、少し、他の解釈も載せておきます。必ずしも私は賛同しているわけではありませんが、可能性を考える糧にはなると思います。ひどい思い込みの記事のあとは、こういうのも心の隅に置いた方がいいような気もします。今分かる必要はなく、分かったとしても人間の判断に過ぎないことを弁え、解釈は、決めつけなくてもよい、決めつけてはいけない、ということを学んでほしいと思いました。
 
嫉妬にかられたカインはその後、野原にアベルを誘い殺害する。その後、ヤハウェにアベルの行方を問われたカインは「知りません。私は弟の監視者なのですか?」と答えた。これが人間のついた最初の嘘としている。(ウィキペディアより抜粋)
 
では、地を耕すことを生業とするカインはどうすればよかったのか? むずかしいことではない。アベルにわけてもらえばよかったのである。「アベル。主にささげ物をしたいから、地の作物と肥えた羊を交換してくれないか。」とひとこと言えばよかったのである。しかし、あえて、そう言わなかったことにカインの問題があった。カインとしては、自分が心を込めてささげ物をするのだから、神が受け入れてくれるのはあたりまえだ、という考え方をした。つまり彼の問題点は、「俺流の礼拝」を神に押し付けようとしたということである。
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20110829/p1
 
カインは罪を悔いています。そのカインに対して神様は完全な保護を約束され、実行されています。神様はカインを赦されたと考えていいのではないでしょうか。ですから私は、カインは極悪人であったには違いありませんが、今は赦された人と見ます。本当の意味での「カインの道」は悪の道ではなく、かつての罪人が福音の光に照らされて救われた道なのです。普通厳しいだけの神様を描くと思
われている旧約聖書ですが、違う、良く読めばすでに新約の福音的思想の芽生えがある、福音信仰の萌芽があるのです。新約聖書しか読みたくないという人も多いかと思いますが、この際見直されてはいかがでしょうか。
http://homepage3.nifty.com/eternal-life/preachings2005/05.10/10.23.htm
 
 
 彼の過去の記事
 
 カインの末裔
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/20978329.html
 2011/9/1(木) 午後 3:10
 
 カインとアベル
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/2589177.html
 2009/6/23(火) 午後 9:18
 
 
(2016年08月28日、同日一部修正)
 
弁える(わきまえる)
弄ぶ(もてあそぶ)
拵える(こしらえる)
貶す(けなす)、貶める(おとしめる)
偏る(かたよる、片寄る)
執念(しゅうねん)
嘯く(うそぶく)
隅(すみ)