「まさか」へ飛躍の道
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/24739561.html
2013/8/19(月) 午前 9:50
彼の前の記事について、
>イエスは人の道を歩くことを期待した弟子たちやすべての人々に反して、
>人の道の行きづまりである十字架の道を歩まれたのです。
>人の道の行きづまりと破綻の中に「まさか」という驚きの道が開かれてくるのです。
>生ける神による「まさか」のいのちの道なのです。
が、今回、削除されたようです。理由は書いてありません。人の道の行き詰まり=十字架、と取られると語弊があるからでしょうか。現実と理想を、同じ言葉で表すと、ときに、間違ったような、変な文章になることがあります。十字架は行き詰まりではない、と、人の道が行き詰まると、十字架の話と信仰に至る、ということを弁えて分ける、というのは、なかなか難しく、弁えず、避ける、というのが精々になるのは、・・と、ここまでは、無理からぬことですが、
>「まあ、こんなもんでしょう」には驚きがない。
>「まさか」には新鮮な感動と喜びがある。
パリサイ人や偽善者が、キリストから厳しいことを言われ否定される記事がありますが、これも、人の道(悪の道)の行き詰まりです。パリサイ人や偽善者に、そのまま、悔い改めることなく、まさかのいのちの道がありましたか。
彼、シャローム氏は、自分が、人に対しても、神に対しても、ひどいことをしたけれど、悔い改めることなく、まさかのいのちの救われる道があると信じたいのです。問題に対して何もしなくても、悔い改めも、解決もしなくても、自分が正しく救われる、という、自己中心の自己正当化を、わめいているのです。往生際が悪いというか、身勝手もいい加減にしてくれ、ということです。
彼、シャローム氏の場合、「まさか」が、起こりうる状況ではないのです。むしろ、偽善を、今でも隠して、それでも、「まさか」のいのち道で救われる、と言い続けるのは、反省も何もないわけだから、ますます神に背き、ひどいことになっています、1つ記事を書くたびに、背教を深めているのが現状です。
>だから、その体験に裏打ちされて、何が起こっても動じない。あわてない。辛抱強い。
>奴隷がそうだ。過酷な命令に反抗できないし、しない。「まあ、こんなもんでしょう」は、
>一番低い生活を強いられた経験からの発言だ。
引用の、辛抱強さは、捕虜になった体験、つまり、被害体験からの忍耐強さでしょう。「まあ、こんなもんでしょう」は、奴隷でなくても、多くの人々が、日常で、ちょっと疲れたとき、何かを諦めるときに、言うのではないでしょうか。「まあ、こんなもんでしょう」は、一種の諦めの表現かもしれません。
彼、シャローム氏は、加害者です。加害者が、真実によって加害を明らかにされつつある現状で、自分を被害者だと思っているとは、ますます、例えば殺人犯の「殺すしかなかった」「殺す気はなかった」という言い逃れよりも醜いものです。彼を被害者と見なす材料は何もありません。彼の、自己正当化、言い訳、言い逃れは、みな話にならないものとして、今までにことごとく、否定されてきました。だから、彼は、直接には何も言えなくなっており、コメント欄を閉鎖するに至っているのです。今の状態が、彼の悪を証明しているのです。
だから、今シャローム氏が、慌てないでいられるとしたら、それは、シャローム氏の悪意の強さがそうしているということになるでしょう。悪意に支配されている間は、悪魔のごとく、平気でいるのでしょう。どこまでも、自己正当化で、救われる、と言い張ることは醜い。どこまでも、自分に甘い人です。依存心の強さでしょうか。今も、彼は、神に対して、見捨てないって言ったじゃない、救ってくれるって言ったじゃない・・とか、言っているのでしょうか。
>原始キリスト教会には、ローマ帝国で奴隷にされた人々が、多くクリスチャンになった。
>現状は変換クリックできないと諦めていたのに、
>現在のあるがままの姿で、それを突破できる道があった。
歴史的に、このような背景があることは推測できることです。そこから神に拾われ救われた人々が、隠し事や偽善に走るでしょうか。このことを引用した、彼、シャローム氏がしているようなことを、彼らは、故意にすることは決してないでしょう。
仮に、彼、シャローム氏の、思うとおりになって、そんなやり方がうまくいくとしたら、それは、とんでもない悪の成就ですから、彼の台詞は「まさか」ではなく、「しめしめ」でしょう。
しかし、神の業である「まさか」は、神を欺こうとする言葉を発する人には、決して、起こりません。それは、偽善者の仕事だからです。聖書で最も嫌われた罪なのです。
>それがキリストの福音だ。「まさか」と奴隷たちは喜び、教会に馳せ集まった。
>社会の一番低いところに強制連行されていた人々が、
>社会の一番低いところを歩かれたイエスに救い上げられたのだ。「まさか」と狂喜しながら。
こういうことなのです。「低いところ」・・。これが、彼、シャロームの、最も不感であるところ。いつも相手より勝っていると思いたい、彼、シャローム氏は、いつまで、他者の記事を、悪用することで貶めるつもりなのでしょう。
(ローマ人への手紙、口語訳)
4:1
それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
4:2
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。
4:3
なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
4:4
いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。
4:5
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。 4:6ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、
4:7
「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。
4:8
罪を主に認められない人は、さいわいである」。
(ローマ4:1-8、新約聖書)
ここには、働きによる報酬として義とされるのではなく、不信心であっても、行いによらなくても、信仰によって義とされる、ということが書いてあります。ここで「不信心」とは、信仰がないことではなく、信仰者らしく見えないこと、と解釈するべきでしょう。キリスト者は、必ずしも、信仰者らしく暮らしているわけではありません。信心よりも大事な信仰があり、神は、そこを見逃さず、ちゃんと見てくださる、ということでしょう。
神を恐れないのでしょうか、彼、シャローム氏は、毎回、恐ろしいことを書いてきます。自分も今のまま救われるという欺瞞の根拠をこの聖句に求めるとは。キリスト信仰者は、少なくとも、偽善を、いけしゃあしゃあと、やっておきながら、その偽善を、神に義とされる理由にしたいのでしょうか。偽善にもかかわらず、救われると言いたいのでしょうか。この聖句には、そんなこと一文字も書かれていません。聖書のどこにも、悔い改めることなく偽善者が救われる話は、書いてありません。
自分の周りに、独裁国家と同じような情報統制の壁を作り、分け隔てを作り、言論の自由を踏みにじり、あらゆる批判を拒否して、なきものにしながら、その表では、詭弁によって、絶対の民主主義者のように語り、絶対の信仰者のように語り、自分を正しさを訴え、分け隔てのない信仰に見せかけ、空しく飾り立てた言葉と勘違いの聖句によって、自分の無罪を認めてくれる自我の弱い腰の低い人を求めて、誉めそやして利用して、救いを、今のまま思い込もうと、今のまま思い込もうと、繰り言を続ける、唯我信仰者、彼、シャローム氏です。
詭弁の夥しい証拠が積まれている内側を隠し続けている、彼、シャローム氏は、とても、醜く、卑しいことに彼自身だけが気づかないでいます。彼が分からないなら、他の人が影響を受けることのないように、私は努めるしかありません。
だんだん、彼、シャローム氏は、いわゆる、女子供のような、とか、女々しいとか、今は語弊のあるような言い方で表すような、退行して、駄々をこねるような幼稚さになってゆくような気がします。信仰の妄想的確信と執着による狼狽化と、退行と、崩壊過程が見られるようです。太字で書いても、中身は同じですし、ますます強調されるようです。神に対する態度を悔い改めることなく救われた人は、一人もいない、ということを再確認させる、彼、シャローム氏の醜い記事でした。
「まさか」の救いの奇跡は、神から与えられるものですから、神を欺こうとする言葉を発する人には決して起こりません。それどころか、背きが増し加わるだけです。
「まさか」の救いの奇跡は、神の前に正直で低い人々に起こります。そういう人は多くはなく、人から見ると、救いから遠いように見えるけれども、神様にとって大切で尊いのかもしれません。
(2016年08月30日)
貶める(おとしめる)
語弊(ごへい)
欺瞞(ぎまん)
台詞(せりふ、科白)
業(わざ)
欺く(あざむく)
詭弁(きべん)
夥しい(おびただしい)
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/24739561.html
2013/8/19(月) 午前 9:50
彼の前の記事について、
>イエスは人の道を歩くことを期待した弟子たちやすべての人々に反して、
>人の道の行きづまりである十字架の道を歩まれたのです。
>人の道の行きづまりと破綻の中に「まさか」という驚きの道が開かれてくるのです。
>生ける神による「まさか」のいのちの道なのです。
が、今回、削除されたようです。理由は書いてありません。人の道の行き詰まり=十字架、と取られると語弊があるからでしょうか。現実と理想を、同じ言葉で表すと、ときに、間違ったような、変な文章になることがあります。十字架は行き詰まりではない、と、人の道が行き詰まると、十字架の話と信仰に至る、ということを弁えて分ける、というのは、なかなか難しく、弁えず、避ける、というのが精々になるのは、・・と、ここまでは、無理からぬことですが、
>「まあ、こんなもんでしょう」には驚きがない。
>「まさか」には新鮮な感動と喜びがある。
パリサイ人や偽善者が、キリストから厳しいことを言われ否定される記事がありますが、これも、人の道(悪の道)の行き詰まりです。パリサイ人や偽善者に、そのまま、悔い改めることなく、まさかのいのちの道がありましたか。
彼、シャローム氏は、自分が、人に対しても、神に対しても、ひどいことをしたけれど、悔い改めることなく、まさかのいのちの救われる道があると信じたいのです。問題に対して何もしなくても、悔い改めも、解決もしなくても、自分が正しく救われる、という、自己中心の自己正当化を、わめいているのです。往生際が悪いというか、身勝手もいい加減にしてくれ、ということです。
彼、シャローム氏の場合、「まさか」が、起こりうる状況ではないのです。むしろ、偽善を、今でも隠して、それでも、「まさか」のいのち道で救われる、と言い続けるのは、反省も何もないわけだから、ますます神に背き、ひどいことになっています、1つ記事を書くたびに、背教を深めているのが現状です。
>だから、その体験に裏打ちされて、何が起こっても動じない。あわてない。辛抱強い。
>奴隷がそうだ。過酷な命令に反抗できないし、しない。「まあ、こんなもんでしょう」は、
>一番低い生活を強いられた経験からの発言だ。
引用の、辛抱強さは、捕虜になった体験、つまり、被害体験からの忍耐強さでしょう。「まあ、こんなもんでしょう」は、奴隷でなくても、多くの人々が、日常で、ちょっと疲れたとき、何かを諦めるときに、言うのではないでしょうか。「まあ、こんなもんでしょう」は、一種の諦めの表現かもしれません。
彼、シャローム氏は、加害者です。加害者が、真実によって加害を明らかにされつつある現状で、自分を被害者だと思っているとは、ますます、例えば殺人犯の「殺すしかなかった」「殺す気はなかった」という言い逃れよりも醜いものです。彼を被害者と見なす材料は何もありません。彼の、自己正当化、言い訳、言い逃れは、みな話にならないものとして、今までにことごとく、否定されてきました。だから、彼は、直接には何も言えなくなっており、コメント欄を閉鎖するに至っているのです。今の状態が、彼の悪を証明しているのです。
だから、今シャローム氏が、慌てないでいられるとしたら、それは、シャローム氏の悪意の強さがそうしているということになるでしょう。悪意に支配されている間は、悪魔のごとく、平気でいるのでしょう。どこまでも、自己正当化で、救われる、と言い張ることは醜い。どこまでも、自分に甘い人です。依存心の強さでしょうか。今も、彼は、神に対して、見捨てないって言ったじゃない、救ってくれるって言ったじゃない・・とか、言っているのでしょうか。
>原始キリスト教会には、ローマ帝国で奴隷にされた人々が、多くクリスチャンになった。
>現状は変換クリックできないと諦めていたのに、
>現在のあるがままの姿で、それを突破できる道があった。
歴史的に、このような背景があることは推測できることです。そこから神に拾われ救われた人々が、隠し事や偽善に走るでしょうか。このことを引用した、彼、シャローム氏がしているようなことを、彼らは、故意にすることは決してないでしょう。
仮に、彼、シャローム氏の、思うとおりになって、そんなやり方がうまくいくとしたら、それは、とんでもない悪の成就ですから、彼の台詞は「まさか」ではなく、「しめしめ」でしょう。
しかし、神の業である「まさか」は、神を欺こうとする言葉を発する人には、決して、起こりません。それは、偽善者の仕事だからです。聖書で最も嫌われた罪なのです。
>それがキリストの福音だ。「まさか」と奴隷たちは喜び、教会に馳せ集まった。
>社会の一番低いところに強制連行されていた人々が、
>社会の一番低いところを歩かれたイエスに救い上げられたのだ。「まさか」と狂喜しながら。
こういうことなのです。「低いところ」・・。これが、彼、シャロームの、最も不感であるところ。いつも相手より勝っていると思いたい、彼、シャローム氏は、いつまで、他者の記事を、悪用することで貶めるつもりなのでしょう。
(ローマ人への手紙、口語訳)
4:1
それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
4:2
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。
4:3
なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
4:4
いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。
4:5
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。 4:6ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、
4:7
「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。
4:8
罪を主に認められない人は、さいわいである」。
(ローマ4:1-8、新約聖書)
ここには、働きによる報酬として義とされるのではなく、不信心であっても、行いによらなくても、信仰によって義とされる、ということが書いてあります。ここで「不信心」とは、信仰がないことではなく、信仰者らしく見えないこと、と解釈するべきでしょう。キリスト者は、必ずしも、信仰者らしく暮らしているわけではありません。信心よりも大事な信仰があり、神は、そこを見逃さず、ちゃんと見てくださる、ということでしょう。
神を恐れないのでしょうか、彼、シャローム氏は、毎回、恐ろしいことを書いてきます。自分も今のまま救われるという欺瞞の根拠をこの聖句に求めるとは。キリスト信仰者は、少なくとも、偽善を、いけしゃあしゃあと、やっておきながら、その偽善を、神に義とされる理由にしたいのでしょうか。偽善にもかかわらず、救われると言いたいのでしょうか。この聖句には、そんなこと一文字も書かれていません。聖書のどこにも、悔い改めることなく偽善者が救われる話は、書いてありません。
自分の周りに、独裁国家と同じような情報統制の壁を作り、分け隔てを作り、言論の自由を踏みにじり、あらゆる批判を拒否して、なきものにしながら、その表では、詭弁によって、絶対の民主主義者のように語り、絶対の信仰者のように語り、自分を正しさを訴え、分け隔てのない信仰に見せかけ、空しく飾り立てた言葉と勘違いの聖句によって、自分の無罪を認めてくれる自我の弱い腰の低い人を求めて、誉めそやして利用して、救いを、今のまま思い込もうと、今のまま思い込もうと、繰り言を続ける、唯我信仰者、彼、シャローム氏です。
詭弁の夥しい証拠が積まれている内側を隠し続けている、彼、シャローム氏は、とても、醜く、卑しいことに彼自身だけが気づかないでいます。彼が分からないなら、他の人が影響を受けることのないように、私は努めるしかありません。
だんだん、彼、シャローム氏は、いわゆる、女子供のような、とか、女々しいとか、今は語弊のあるような言い方で表すような、退行して、駄々をこねるような幼稚さになってゆくような気がします。信仰の妄想的確信と執着による狼狽化と、退行と、崩壊過程が見られるようです。太字で書いても、中身は同じですし、ますます強調されるようです。神に対する態度を悔い改めることなく救われた人は、一人もいない、ということを再確認させる、彼、シャローム氏の醜い記事でした。
「まさか」の救いの奇跡は、神から与えられるものですから、神を欺こうとする言葉を発する人には決して起こりません。それどころか、背きが増し加わるだけです。
「まさか」の救いの奇跡は、神の前に正直で低い人々に起こります。そういう人は多くはなく、人から見ると、救いから遠いように見えるけれども、神様にとって大切で尊いのかもしれません。
(2016年08月30日)
貶める(おとしめる)
語弊(ごへい)
欺瞞(ぎまん)
台詞(せりふ、科白)
業(わざ)
欺く(あざむく)
詭弁(きべん)
夥しい(おびただしい)
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