世間体と体裁
今も、世間体大明神信仰や、体裁大権現信仰から、逃れられず囚われて、・・それらは、既に人間を苦しめる世俗の代表みたいな神?であるが(※1)・・、それら、巷の道徳から生まれた、本意を無視した、見かけだけの判断から、キリストを信じると言いながら、見かけを気にして、真の信仰からは、大きく外れた行為を平気でやって、しかも、ずるずると、言い逃れしか言ってこない者を、日常的に見せられてしまうのは、どういうことだろう。
※1:
古来の神道や仏教という意味ではない。何故なら、日本の昔話などに表れる、勧善懲悪が、日本の、そして日本人の、最初の公共の道徳であった可能性を否定できないからだ。そこから生まれてくるものが厄介、というのは、16世紀に伝わったキリスト教においても同様だからである。
この世と、神に、両方に仕えることは出来ないと、書いてあるのに、分からないだろうか。
キリスト教には、問題となる2つの側面というか印象がある。
欧米らしく、曖昧さを嫌い、合理的で、厳密であるように見えること。それは、何やらスマートな感じさえ与えるということ。
でありながら、ありのままでよい、というような東洋的な、緩い許容の印象もあること。それは、聖書にある、多くの逆説的な表現かもしれない。キリストの優しさであるかもしれない。
これらの、相反するような印象は、日本において、キリスト教が広まるために、それぞれ、いい加減ではいけない方向と、無理を要求しない方向とを、併せ持つかのような要素として、必要だったのだろうか。
厳密に見えるのは、神が、特に旧約では厳しい御方として書かれているから。だから、キリストは、旧約の神の怖さを克服した慈愛のような印象を与える。それが、ありのままでよい、という印象を当てるのだろうか。
しかし実際には、厳密な旧約の神は、厳しいだけではなかった。神が喜ばれるのは、生贄ではなく憐れみだ、といったような教えにも表れている。キリストは、旧約の神の教えを、否定したのではなく、成就するためだ、と言っている。・・これも、逆説的だ、という向きもあるだろう。また、聖書の中のキリストは、優しいだけではなく、何でも受け入れるわけでもない、厳しさを持っていた。
こういう、相反するような方向の印象が、いずれも一面的で、そういう捉え方は善くないと言っているのに、印象めいたものとして残ってしまったのが、そうさせてしまったのが、人の不全ということにもつながるのである。
神、聖書、宗教、信仰、それら全体にわたって、人の不全、つまり、いい加減さは、惜しみなく働いて、それもこれも、特徴だと、あちこちで言われたために、それが背教か殉教かも弁えないで、広まっていったのだろう。
その背景には、聖書を分かっていなければならないという強迫観念であったかもしれない。無理をして、こじつける者がいたのだろう。同時に、分からないと言えない気風も育ってしまったかもしれない。現代に生きて考えている人たちは、聖書について、神について、分かっているから物を言うのではなく、分からないから物を言い、分からないから知識を集め、分からないから話し合い、分からないことがあると分かる人であって欲しいと切に思っている。
神と、この世に、同時に仕えようとして、失敗することが、結局、信仰の目覚めになるように。苦難と不幸が試練に、そして恵みになることが分かるように。陶酔や有頂天気分が、信仰にとって、プラスにならないことが分かるように。いつまでも見かけ大事に凝り固まって、不正を働くような者にはならないように。さらに信仰の公義において、隠したりすることのないように。背いておきながら、間違っても、言い訳がましいことを何度も書いたりすることのないように。さらに、その言い訳に、誰も乗せられることのありませぬように。
(2016年08月31日、同日一部修正)
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