踏み荒らす者
 
 「背負い、抱き、運ばれる神」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27709489.html
 2016/9/23(金) 午後 9:44
 
 
豊富な記事の蓄積のあるサイトから、しばしば、彼が、最近好んで転載してくるようです。
 
>私たちは神キリストがともにおられることを喜びとし、新しい身分とされて、
>この世にあっては寄留者、旅人として歩み続け、目指すは御国、神の国だ。
 
一人のキリスト者が信仰について語った言葉として、何ら、おかしなところはなく、特に優れているわけでなくても、内容的に、うなずける文です。こういう文章について、うるさく言うつもりはありません。しかし、この文章を転載した人が、問題のある人の場合、どういうつもりで転載したのか、ということを考えることになります。
 
転載した彼にとって、「新しい身分」は、聖霊を賜って罪を犯さなくなった特別の上級の人、という受け取り方ではないのか。「寄留者、旅人」は、よそ者のように今は虐げられているが、いずれ、来たるべき世で、重要人物となる自分、ということではないか。「目指すは御国、神の国」は、神の前に、他者に対して何の共感も持ち得ない彼自身の、今の、平安と呼んでいるもの、実は、安穏の、延長上に、生命保険として、既に保証されているもので、今のまま、何も考えないで、もらえる資格として、彼は指しているのではないか、・・等々、彼のネットでの言動は、その根拠としての事実によって、彼の信仰とその考え方を、信仰と受け取ることの出来ない要素で満たしてしまったのです。彼が、負けないで書き続けるつもりで、事実と真実にそぐわない妄想的言辞を弄すれば弄するほど、彼に対する評価をも妄想的に、うがったものにならざるを得ない、という事態が起こっています。
 
 (イザヤ書、口語訳)
46:3
「ヤコブの家よ、
イスラエルの家の残ったすべての者よ、
生れ出た時から、わたしに負われ、
胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、
わたしに聞け。
46:4
わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。
 (イザヤ46:3-4、旧約聖書)
 
4節は私の大好きな聖句です。年を取るほどに身に心に沁みます。引用前半は、イスラエルの民のことですが、民族にこだわることはなく、神を信じる総ての人に向けられていると解釈します。神が人を背負う、という大切なテーマが込められています。人が世界中で暴力をふるうことも、人がネット上の言論に強制力という暴力をふるうことも、感じさせない聖句です。
 
>私たちの力で行くことは出来ない。神がそれをなしてくださる。そこに希望がある。
>私たちを形造ったお方は、決して苦難の場に追いやるお方ではなく、
>新しく生まれ変わらせてくださり、私たちを背負い、永遠の喜びの場、御国へと運ばれる。
 
>あの砂の上の足跡にあるように
>「わが子よ いとしい子よ 私がどうしておまえを忘れることがあろうか 
>あなたの試練の時苦しみの日に一組の足跡しか見なかったのは 
>私があなたを背負って歩いていたからだったのだ。」と背負って運んでくださる。
 
この後半部は、「フットプリント( foot print 足跡)」という、よく知られている宗教詩です。これを記事に書き、私に教えたのは、皮肉なことに、彼、シャローム氏なのです。宗教詩を紹介する、聖句を紹介する、他者の記事を紹介する、日常的感慨を信仰生活の近況として紹介する、それだけをしてくれる人であったなら、私が、ここまで、批判をする事態は起こらなかったでしょう。
 
フットプリントの詩が、彼には、懐かしかったのかもしれませんね・・。キリストが信仰者を背負うから、足跡は、二人分ではなく、一人分、という詩です。さて、どうでしょう、私は、また、辛辣にならざるを得なくなります。
 
他者の発言を、気にくわないからと、そのわりに反論も出来ないから、承認せずに不可視化し、それで足らなければ削除し、ついにはコメント欄を閉鎖し、残したコメントをもって、自分が堂々と対応し弁明し、批判に反論をして退けた、という偽善を為し、しかも、そのことを読者に対しては、ひた隠しにしてきた隠蔽という事実と、神の前でも、悔い改めることなく、批判者も読者も軽く見て、それでやってゆけると思ってか、さらにずっと、白々しい言説によって、相変わらず神の御心を伝え教える教師として、お手本でも見せるかのように、神を讃美しまくってきた、という傲慢不遜の経過から見ると、キリストのフットプリントを、彼はせっせと、その荒々しい獣性をもって、消してきたのではないか、彼のフットプリントは、彼が、キリストのフットプリントを荒らした無数の乱れた足跡だけになっているのではないか、という気がします。
 
 
 (イザヤ書、口語訳)
63:9
彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、
そのみ前の使をもって彼らを救い、
その愛とあわれみとによって彼らをあがない、
いにしえの日、つねに彼らをもたげ、
彼らを携えられた。
63:10
ところが彼らはそむいて
その聖なる霊を憂えさせたので、
主はひるがえって彼らの敵となり、
みずから彼らと戦われた。
 (イザヤ63:9-10、旧約聖書)
 
>私たちは日々で悩み、苦しみを背負い込んでしまう者。
>けれども、ここにあるように、神はそれを知ってただ傍観するお方ではない。
>神もともに苦しんでくださると言っている。
>私たちの神はいつもこころに留め、必要を満たすお方だ。
 
傍観せずに、いつも、何をやっても、自分の味方をして、さぞかし、敵に攻撃されて苦しかろうと、憐れみこそすれ、自分の罪や偽善など、気づく必要など全くない、という、都合の良い、彼の神?の、自分に対するストーカー的偏愛による、依怙贔屓の救いと、敵への復讐を願う調伏信仰の、呪いのような、彼の丁寧語の世界を強めるための転載でないことを祈ります。
 
>何よりもイエス・キリストは私たちのすべてを背負って、十字架についてくれた。
>イエスは苦しんでいる私たちとともに、苦しみを共有される。
 
イエスという名の人間の肉体を持って30年余の伝道生活を過ごされたキリストの最後は、十字架による処刑でした。人間の苦しみを、御身の死という苦しみによって、共有した。キリストは、人間の苦しみに共感し、苦しみを共有するために、生まれてきた、という解釈を取ります。そして、前にも述べたように、キリストが、十字架以外にも、伝道において人間に向けた共感と共有こそが、人間にとって、キリストを忘れられない御方として伝える力となったのです。いちばん大切なそのことを、聖書は、解釈され活かされるために、語り続けています。
 
それを、人間としての共感性を否定し、実際、持っているとは思えない人は、契約がどうの、罪の贖いがどうの、計画として最初から決まっていたからどうの、肉体の復活の事実なしではあり得ないだのと、超常の奇跡の言葉だけの、教理という理屈に閉じ込めて、また、御言葉だからどうの、啓示だから議論無用だの、結局自分を高める方向にしか言葉を語れないで、結局、人間の心の琴線に触れるところを、みな、見逃してしまって、それを人知を超えた神の奇跡と讃美し、信仰だと言い張っているのです。そこに生じる齟齬は、人間らしい言葉を全く理解できないほど感性を破壊されたまま、その自覚さえ持たない顎の無遠慮な常同運動なのです。
 
 
>罪と死の恐怖は、神を無視し、的外れの生き方をしていることによるもの。
>だから、方向転換をして、神との関係を正し、ともに歩むことで、
>本来あるべき私たちの生き方に戻るために。
 
努力しているつもりでも「罪と死の恐怖」を感じて「神を無視し、的外れの生き方をしていること」が多いのが人間です。2行目「方向転換をして、神との関係を正し、ともに歩む」は、説教などでは、よく聞かれることですが、調子のよい言葉を宛がったような、かなり、お座なりな言い方になっています。シャローム氏が、何でもかんでも神を讃美することに結び付けるのにも似ています。
 
上に書いてあるようなことを志すことが信仰です。言ってすぐに達成できるような、スイッチを切り替えればよいかのような知恵ではありません。しかも、このことは、念じれば通じる、という性質でもないようです。なぜ、このような、言葉を紡ごうとすればするほど、かえって真実味が薄れ、実態から遠くなるようなことになるのでしょう。事実と当為、理想と現実を分けることが、なかなか出来ないで書いてしまうからでしょう。誰でも、そういうところがあるのは、それが、人の伝達手段としての言葉だからでしょう。
 
ですから、この地上に生きておれば、自らの至らなさに気づくことのほうが多い、ということです。つまり、この地上に生きることは、神に対する人の不全に気付く機会に満ちており、人の不全の自覚こそが、神の前に唯一無二の捧げものになるのです。達成しようと努めて、力至らず倒れることによって、その都度に、私たちの生き方の至らなさを、そのまま、神に捧げることにつながるのでしょう。それが、本来あるべき私たちの生き方に戻ることになっているかもしれません。
 
それがなかったら、・・少なくとも、神の前に、至らず失敗した自分を隠すなど、大切な機会を無にしていることで、論外なのです。
 
全知全能の神の前に、愚かな自分を差し出さないで、いったい、何を捧げるつもりなのでしょう。
どれほど成功して立派になった自分なら、差し出せる、と言うつもりなのでしょう。
 
ちょっと、話の筋が、ズレたような気もしますが、そろそろ結びで・・
 
神は、人が成功した暁の結果や貢物がほしくて、人に信仰を与えたのではないはずです。成就は神の仕事です。人は何が成就かさえも知りません。なぜ、神の前に、立派な自分、言い間違いをしない自分、整った自分、この世からも尊敬される自分、うまく言える自分を見せようとするのでしょう。
 
私たち人間は、神の成就に一役買って、神の前に恥ずかしくない人になるために、信仰を持っているのだろうか。私たちの努力は、神の前に、どれほど、よくやったと褒めてもらえるものになり得ると言うのだろうか。不法の者どもよ、言ってしまえ、と言われても仕方ない、と諦めてもいいような絶望的な私たち一人ひとりを、神が救うと約束されたのは、ゆくゆく立派になることを、今さら、望まれるからだろうか。・・否である。神に捧げるものを、勘違いしてはいないか。私たちは、どうしようもなく弱り、いかなるすべも失い、小さく低くなった。まさに、そのとき、それゆえに、神の目に留まったのではないのか。
 
このように、人間というものは、正しさをいつでも、半端な心で求めるゆえに、神の前に、低く、小さく、弱い者として、人間としての身の程を弁える、ということが、実に難しい存在なのです。
 
 
※ 
 
不実の証拠が山のように溜まってきて、御心を讃美すればするほど、破綻が明らかになるのに、物を言うのが御心なのかどうかさえ弁えられず、物を言っては返せなくなっているのに、なぜ、記事を書いたり、他者の記事を転載したり、性懲りもなく、見苦しく立ち回っては、まともを装おうとするのだろうか。
 
 
(2016年09月25日、同日一部修正)
 
弄する(ろうする)
依怙贔屓(えこひいき)
調伏(ちょうぶく)
琴線(きんせん)
齟齬(そご)
暁(あかつき)