早食いと偏食
 
 早食い癖と塩分には用心!
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27710241.html
 2016/9/24(土) 午前 10:58
 
 
 (詩篇、口語訳)
19:7
主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、
主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
19:8
主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、
主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。
19:9
主を恐れる道は清らかで、
とこしえに絶えることがなく、
主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。
 ・・・・
19:12
だれが自分のあやまちを知ることができましようか。
どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。
19:13
また、あなたのしもべを引きとめて、
故意の罪を犯させず、
これに支配されることのないようにしてください。
そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、
大いなるとがを免れることができるでしょう。
19:14
わが岩、わがあがないぬしなる主よ、
どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが
あなたの前に喜ばれますように。
 (詩篇19章より抜粋、旧約聖書)
 
引用前半は神の讃美です。後半の祈りが込められていることを忘れてはいけません。私たちは、本気の、偽りのない祈りを通して、召されるまでを生きてゆくのです。
 
>主のみおしえ、主のあかし、主の戒め、そして主の仰せとは、皆、神のことばの
>ことを言っています。聖書のことばを心にしっかり読み、十分蓄えると、人を生き
>返らせ、人を賢くし、人の心を喜ばせ、人の目を明るくするのです。
 
しっかり読まずに、好きなように解釈して、自分に都合の良いことばかり蓄えると、自分は生き返ったつもりになり、人には自分への反対意見の存在さえ許さず、自分は賢くなったと思い込み、人を愚かで病気だとさえ決めつけ、自分の心だけ悦に入って、人を悲しませ苦しめても気づかず、自分の目は何でも見えると思い込み、人の目は曇っていて何も見えないと決めつけて、教えを押し付けるようになります。そうならないために、注意深く、教えの解釈については、自分についてと、他者つまり人一般に対しての、両方を考えてみることだ大切です。
 
>早食いは食べる時だけでなく、読書、特に聖書を読む時にも言えるようです。
>一度に2,3冊の本を読んだりしますが、本文記事の方と同じことが多くなってきました。
 
自らの独善に染まってしまうと、自分の好きなところだけを覚えるようになり、読み方が片落ちになります。そして、自分に都合の良いところだけを引用して、こう書いてある、と文句を言わせない者になるでしょう。早食いも、好き嫌いも、要注意です。
 
>できるだけいろんな人の言葉を聞き、刺激を受けることも大事なようです。
 
自分の都合の良いところだけしか耳に入れないことの宿命のように、そういう人は、賛同者だけを歓迎し、批判者や対立者や、異なる意見を持つ人を、もはや、人とさえ思わないほど、粗略に扱うようになる、という例を、私は、書いてきました。
 
>早食いと塩分には要注意ですね。
 
好きなものだけ食べる、という偏食になると、節操のない早食いをして、何も咀嚼せず、何も身につかない結果となり、唾液を垂らしながら、食物残渣をこぼしながらも、すべて消化し終えたかのように、傲慢な口の利き方を、丁寧な口調でごまかしながら語って、信仰を求める人を、人とも思わず、神の言葉を、自分の人格と境地の自慢に悪用し、反対者の侮辱のために吐き出して、福音伝道を台無しにしてしまうのです。そして、塩分の取り過ぎのように、知らないうちに、人に対して上から高い圧力をかけてしまうことになるのです。栄養を取っているつもりで、実は、毒を食らい、毒を吐き、毒を盛ることにならないように、要注意です。
 
 
※ 
 
キリストは、人間の苦しみに共感し、人間の苦しみを共有するために、罪を犯さないでは生きられない人間のために、苦しむ罪びとを癒やし赦し救うために、この地上に遣わされた。そのことが、人間の罪を贖うために、命をなげうったことを示しているのに、教理にこだわり、教理の文言にこだわる者は、あとのほうの「罪の贖い」という言葉が出るまで不安になり、その言葉が出ると安心する、という強迫症状を示す傾向があり、言葉によって、安心というより、信仰を言葉の鋳型に納めて、ちゃんと合うと、解放感がなくても善しとしてゆくようになり、むしろ心の解放としての安心より、いつも使っている言葉以外では安心できないという病理に近くなってゆく。
 
その副作用として、聖なる言葉さえ聞けば、往時の理解は遠くなって、ぴんと来ていないにもかかわらず、納得してしまって、納得ということが、耳から脳へ、一つの型に嵌った言葉の信号のように伝えられ認知されてゆくために、新しい感動という活性化からはどんどん離れて、型に嵌らない自由度を持った話を、受け取る感受性が鈍麻してゆく。ゆえに無感動の習慣的讃美が、信仰の日記となる。・・これは、特殊な者に起こる、ということではなく、人間の言葉には、そのような鈍化のプロセスが、適応という心の作用といっしょに付いてくるのである。つまり、必然的に、心を豊かにしながら貧困にしている、覚醒しながら忘却している、という繰り返しが、人の精神生活である。
 
それは、克服できるだろうか。まず、精神は、精神によって、流動する、と言うことも出来るだろう。したがって、上のようなことを自覚したときから、人間の心は、無自覚に、別の思路と情感を求める可能性、というのがある。信仰においては、自分で決め付けて固定しない限り、前にも書いたように、人間が不全であることは、未完成でもあることとして、経験によって思い知らされ、新たな自覚として、信仰の心が、さらに新鮮な命として日々更新されてゆくだろう。
 
ゆえに、自ら、新しい経験を拒否し無視して信仰を不動不変とする向きにおいては、もはや、惨劇としか言いようがない。そのような、人間の可能性を捨てるようなことだけは、してほしくない。それは、いかなる不信仰よりも、嘆くべきことである。
 
 
(2016年09月26日)
 
粗雑(そざつ)
咀嚼(そしゃく)
嵌る(はまる)