悔いない牧師
 
 懐かしいおばあちゃん
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27711674.html
 2016/9/25(日) 午前 8:29
 
 なつかしいおばあちゃん
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/9661680.html
 2009/11/20(金) 午後 9:46
 
 
私の記事「踏み荒らす者」で、大好きな聖句として引用した聖句ですが、
 
 (イザヤ書、口語訳)
46:4
わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
 白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
 持ち運び、かつ救う。
  (イザヤ46:4、旧約聖書)
 
彼は、また改めて引用して、牧師として、仕事がうまくいったという、かなり昔のエピソードを、コピペしています。
 
先ず言っておきますが、仮に、私が老人ホームか病院にいたとして、彼、シャローム氏が、信仰の話をするために訪れたら、あらん限りの批判をして、追い出すでしょう。年寄りだから、何でも、文句を言わずに受け入れるなどと思ってほしくないからです。
 
仮定の話でしたが、なぜ追い出すかというと、彼とは、もはや、信仰者と牧師としての基本的な信頼関係が成り立っておらず、対立関係しかないからです。彼は、今まで書いてきたように、牧師でありながら、信仰者が問い掛けた疑問や反対意見に対して、はぐらかし、答えられなかっただけでなく、答えられなかったことを隠して、なかったことにしたのです。彼は、分からないと言えない牧師であり、一切自分の非を認めない牧師です。さらに、突っ込んで問いただそうとすると、意見(コメント)をブロックし、さらに削除して、保身のために、反対意見のない、正しいブログの体裁を守ろうとしたのです。さらに、その後の、前に書きましたが、侮辱でしかないレスの数々・・。その、反対意見拒否の姿勢は、今も続いており、改める姿勢が全く見られないのです。神の前にも、人の前にも、明らかな偽善をなし、そのことを謝罪もせず、悔い改める姿勢も全くなく、なお、コメント欄閉鎖によって、隠蔽を続ける牧師を、どうして、先生と呼べるでしょうか。
 
こういう、自分の非を認めることをしない人というのは、神の前においても、社交辞令のような謙遜めいた態度と言葉を示すことは出来ても、本当に砕かれた魂で、本当の悔い改めの祈りをしたことなど、ないのではないかと思われます。
 
自分にとって不都合な状況が自業自得で起こっているときに、その状況を隠して、白々しく、自分の伝道がうまく言った話をして、一方で、失敗や反省を全く書かないならば、この人は、なおも、人を騙して、真実を隠して、よく思われたいのだな、と判断するしかないのです。
 
ネットでの説教も伝道もうまくいかない今の自分を隠して、尊敬に値する牧師だと思わせたいのです。そのための丁寧語なのです。弱っていて腰の低い年寄りに熱心に伝道する、というのは、悪徳商法やカルトが好んでやることでしょう。
 
ひょっとしたら、完全に近い不感不応の彼の記憶に残っているのは、うまくいった話だけで、失敗したり、罪を悔い改めた話は、ないのかもしれません。表面的な優しさと丁寧なだけの言葉、そして、やんわり脅迫めいた文言を挿んでくる、彼の説教のような言葉の罪深さを改めて思います。
 
このように、彼が、自分にとって、都合の良いことを書くたびに、私は、その偽善と隠蔽の罪深さを、改めて思い、改めて批判し、改めて警鐘を鳴らし、改めて稿を起こし、改めて彼の不都合な真実について、事実関係について、書いてゆく動機を得るのであります。
 
私は、彼の今回の記事のような、一見よさそうだと受け取られそうな記事を見ると、それを狙っている彼の、どす黒い怨念を思わずにはいられず、憤慨に耐えません。怒りは、危険だが、常になぜ怒るかを問うてきます。したがって、そのまま返すのではなく、怒りを思考と集中力のエネルギーに変えられるだけ変えて書いてゆきます。
 
信仰について、その芯について、何も分かっていない愚か者が、自分が愚か者だと認めるなら、愚か者の名は返上することも、立派なキリスト者になることも出来るでしょう。しかし、自分の愚かさに気づかず、愚かさを認めないで、言い張り続けるあいだは、信仰を妨げる躓きの石か、手段を選ばず強制力を使い偽善を隠蔽するパリサイ人と同様の迫害者にしかなれないのです。
 
彼は、まるで、自分だけが本当の神とつながっている、ということが大前提になっているようです。自分以外の人、特に、批判者や反対者も、キリスト信仰者として、神の御心を思い、考え、祈りによって生きている事実を、その可能性から、根拠もない決めつけの確信によって、全否定しているわけです。彼の、今に至る数々の言説と、反対意見を全くゴミのように見なして受け付けない態度を見ていると、今回も彼の記事は白々しい狡さだけで、御心に適うのは自分だけ、という前提を持ってるとしか思えません。人間の状況判断や気遣いというのは、宗教と信仰の間違った確信を放っておくと、ここまで壊れることがある、という、反面教師にしかならないと思います。
 
 
(2016年09月27日)
 
躓き(つまずき)
隠蔽(いんぺい)
迫害(はくがい)