腹を満たす器
 
 その名は不思議
 生きる道
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27713370.html
 2016/9/26(月) 午前 7:52
 
 おなかと心を満たすもの
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/25066953.html
 2013/11/27(水) 午前 11:17
 
 
>一時的で終わってしまうもの。それは朽ちる食物です。楽しみも、喜びもそうです。
 
彼の楽しみは、善人として、この世で尊敬されるための、見かけ、体面、体裁、以外にはないようです。今まで彼が書いてきたものと、今まで彼がしてきたことが、その驚くべき対照を明らかにしています。弁明の余地がなくなると、このように開き直り、このように、うそぶくのだと、彼は証ししている成り行きですが、彼は気づきません。認めなくないだけかもしれません。
 
>一時的なことのためにだけ働く道と、永遠に価値あるもののために働く道があります。
 
説教者が、ときに用いる二者択一の、ある意味、脅迫めいた言説ですが、説教者だった彼は、今までに私が書いてきた偽善と隠蔽の事実関係から、明らかに前者を選択しています。そして、あらゆる矛盾を無視して、反省もせず、後者のために働いている自分を今日も偽装しています。
 
>人間は一時的なものに満足出来ないように造られています。
 
なかには、彼のように、一時的で朽ちるものだと言いながら、それに縋りついている者もいます。そのために、手段を選ばなかった履歴が、このブログなのですが、書けば書くほど証拠が積み重なってゆくのですが・・。何か、人間にとって、大事な、見分ける感覚のようなものが、彼には欠けているようです。ここまで白々しい人を、私は他に見たことがありません。
 
>神のかたちに造られているからです
 
驚くべきことに、彼は、神のかたちに造られているからこそ、今のようにしているつもりのようです。勘違いの信仰が、いかに人を醜く滅ぼしてゆくかという怖さを、学ぶべき題材になっています。
 
>その空しさを埋めるために、神ならぬモノを礼拝をしながら、
>それを満たそうとしますが、一時的で終わります。
 
神ならぬモノ、それが、自分を飾る、見かけ、体面、体裁、なのですが、信仰よりもそれらを大事にして、彼は、空しさを埋めるのではなく、空しさでブログを自分を人生を埋めようとしているのです。悲しいことに、彼は、その一時的な善悪の判断を、こよなく愛しているのです。
 
>心は見える飲み物、食べ物では満たされることはありません。
>心を見えるモノでいっぱいにしようとすればますます飢餓感は深まるようです。
>見えない心を満たそうとして見えるモノの豊かさを追い求めてきた世界は混乱でいっぱいです。
 
批判を受け入れ、彼自身の今を克服して成長してゆくことを、拒み続けている彼は、飢餓と混乱でいっぱいになり、さらに、人間らしい感覚を喪失し、人間らしい認識を歪曲し、人間らしい情感を排せつ物のように捨てて、なお、これが、神の御心だと言い張っているのです。
 
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
6:26
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。
6:27
朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。
 ・・・・
6:35
イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
 ・・・・
6:39
わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。
6:40
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
 (ヨハネ書6;26-39抜粋、新約聖書)
 
彼は、自尊の満腹を求め、朽ちないものを知ることがなく、信じる、信じる、といって、飢えた獣のように、向かう先が、排せつ物の溜まり場だということに気づきません。彼の器は、便器となり、彼の神様として、トイレの下を拝み、パンを食べて満腹するたびに、きな臭く胡散臭い朽ちるもののために働くことを讃美しているのです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
16:24
それからイエスは弟子たちに言われた、
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、
自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
16:25
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、
わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
16:26
たとい人が全世界をもうけても、
自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、
人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
 (マタイ16:24-26、新約聖書)
 
彼は、自分を十字架のペンダントで飾りながら、積み重なるものを「+」の足し算にして、自分の立場を後生大事に負うて、キリストを知らない自分を、その言説と言動の背きで明らかにしながら、この世の、自己顕示欲や虚礼に従い、自分の命を救おうと、残り少ない命を虚偽で満たし続けているのです。彼は、全世界をもうけることはないでしょうが、彼の得は、目先の、美味しそうな物で腹を満たし、目先の、彼にとってだけ都合が悪いために汚れて見えるものを便器に流すことなのです。その器が、自分自身であることに気づかないで、ときおり溢れて逆流してくるの曖気の酸味に首を傾げる日々を送り続けることを信仰生活と呼び、人に勧めているのです。
 
 
神は目に見えないから非現実だと思う人も多いでしょうが、
神は、現実世界で、神を信じる人が、姑息に目先の利益を追う卑しさから、人知を超える飼い主に憧れて信仰を持つことで、気高い慈愛の心を持つようになり、目先の利益よりも真実を求めるようになる生き方が、地上に表れることを通して、御心を表すのだろうと思います。
 
神は、今の世においては、肉体や物に起こる奇跡よりも、人間を通して、顕現するでしょう。
 
今の世において、尊敬されているように見えることや、バランスの取れた人格者らしく見せることや、礼儀と社交のランキングや、数字の優秀な頭脳や、衰える前の立派な肉体や、ハゲタカを喜ばせる豊富な財産や、たくさんのイエスマンを引き連れることや、様々見かけを整えることだけを、至上のものとして追い求めて止まない人は、その弊害を指摘されても、なお、いつまでも、姑息な価値を得ようとする盗人根性のままになり、ときおり、それを垣間見せたり、暴露されたりして、人間世界に、人間存在の失望を振りまくことになるのでしょう。
 
 
(2016年09月28日、同日一部修正)
 
縋る(すがる)
溢れる(あふれる)
曖気(あいき(、おくび))≒げっぷ
傾げる(かしげる)