クリスチャンもどきの書き捨て
 
 
 桃栗三年、柿八年
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27716858.html
 2016/9/28(水) 午前 7:48
 
 ○○3年○8年
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/3447995.html
 2009/7/12(日) 午前 7:33
 
 
彼は、3年でも8年でも、甘い根性で、渋い果実を収穫したいようです。どこまでも、偽善と隠蔽の道を進むことをやめないようです。これはキリスト者の歩んでよい道ではありません。彼は、栗を育てても、クリスチャンではありません。彼は、柿を育てても、書き捨てで、人の意見と評価を少しも求めていません。
 
彼は、コメント欄を、ブロック、削除、閉鎖、という操作をして、自分に都合の良い流れを偽装するという偽善の罪を犯し、それに私が抗議して批判しても、それを隠蔽しています。これらの偽善と、隠蔽というさらなる偽善を守ろうとする態度は、反キリストと言う他はなく、それらを継続しながら、一方で、神を讃美する記事を、過去記事からコピペしたり、他者の記事を転載・引用などして、書いているのです。神に対して、偽善を犯しながら、一方で神を讃美する、この白々しい根性に、どうしてたどりつけるのか、このことから、結局、彼は、最初から信仰を自分の名誉欲のために悪用する目的だけの、偽者としか思えなくないのであります。
 
柿の種一つほどの信仰でもあれば出来ないはずのことを、彼、シャローム氏は、ずっと、今も、しているのです。彼は高齢ですが、開き直った偽善を旨とする信仰の末路は、改める意思を微塵も見せないことから、まだ長い、むしろ、ひょっとしたら、それこそ、終わりのない呪いの永遠の魔界への道なのかもしれません。
 
>人間も新しい、甘い実を結ぶように変えられるのに、
>方法はやはりひとつしかないのです。
>どんなに環境を変え、教育などの手入れをしてみても、渋柿は渋柿、
>その本質が変わるものではありません。
 
>人を創造された神は人を見て“はなはだ良かった”と言われたのですが、
>人が神という聖、愛、義なる神との関係、交わりを失ってしまい、
>自らの罪によって渋柿となってしまったのです。
 
彼にとっての甘い実は、自らの罪を隠蔽し、言説を偽造する偽善によって得られるもの、即ち、人に見えないなら神にも見えないだろう、という恐ろしい判断をして、罪と偽善に身を任せて、そこで酔いしれて、人を盲目の、自分の言説に対する信仰、即ち、盲信に堕とす道を、ノンブレーキで猛進しているのです。これまでの彼の言動とネット上の事実を根拠として述べています。彼は、目的地不明の一方向の、暗闇の暴走車です。くれぐれも、うわべに騙されて、好意的に関わって、彼の目的地に同伴することのないように、ご注意願います。
 
>大事なことはキリスト教という宗教にではなく、
>イエス・キリストご自身といういのちの木を接ぎ木されることです。
>いかなる宗教も人から生まれたものですから人を変える力はないのです。
 
「キリスト教という宗教にではなく」(キリスト信仰)という言い方を彼は前からしていました。以前はキリスト教の古くからの教理に染まっているのか、と思っていたら、これを前に聞いたときから、伝統的キリスト教からも逸脱して語っていることに気づいたことでした。彼の宗教観は、カルトと同じ自分の解釈と教えを断定し、それに逆らわず従うことを求める自分由来の自分信仰です。何よりも、彼は人間性を理解できません。彼は非を認めません。底知れない悪意と策略をもって人に対します。一見まともに見えるのは、彼の丁寧語と慇懃無礼の成果なのです。
 
謝罪は、彼にとって、さして問題とならない事柄について、社交辞令の処世として、賛同者や好意的なコメントを入れた人など、お味方にしたい相手にだけ、語られます。
 
だから、一定期間、付き合って、疑問を呈したり批判するに至らなければ、見破ることは出来ないでしょう。よく見ると、よく聞くと、よく読むと、彼の言い方は、一方的で、訂正不能です。都合の悪いことには一切耳を貸さない無根拠かつ無思考に言い張り続ける能力があります。そのために卑劣な手段を使うことにも迷いません。それが、彼にとって、神の御心=自分の心だからです。
 
しばしば、そこで、話しても仕方のない根拠として、聖霊や、神の啓示を持ち出して、話を終わらせようとします。しかしながら、神由来のものであるなら、必ず、それが人間の世界でどう生きてくるかという、人間ならば・・という、矛盾のない整合性が必要になります。彼は、そういう話に全く答える言葉を持ちません。人間性を考える習慣がないからです。彼は、自分が人間より高いと思い込み、他者を人間の存在として見ておらず、存在を限りなく無視できるのです。しかし、状況によって、ブログを偽装するように、平気で嘘や、おべっかも言いますから、見極めにくいのです。
 
彼に従ってゆくと、人間について何も考えない金属のような圧力を、あらゆる人間の道理を無視して振り回すようになります。これは、キリスト教の世界に巣食っている単独思い込みカルトの、一つの典型なのです。伝統的なキリスト教も、教会へ行かず自分で聖書を読んで考えている人も、彼にだけは好意的に近づかないでほしいと思います。 
 
 
 (イザヤ書、口語訳)
5:1
わたしはわが愛する者のために、
そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。
わが愛する者は土肥えた小山の上に、
一つのぶどう畑をもっていた。
5:2
彼はそれを掘りおこし、石を除き、
それに良いぶどうを植え、
その中に物見やぐらを建て、
またその中に酒ぶねを掘り、
良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。
ところが結んだものは野ぶどうであった。
 (イザヤ5:1-2、旧約聖書)
 
偽善者としての正体を言動に露呈しながら、しかし、彼をよく知らない人には、それを、ひたすら隠しながら、彼は、ときに、人はここが良くないと指摘しているふうで、自分を悪の圏外に置いて、こうすれば良いのですと、彼の言うキリスト信仰?を語り、今日も、キリスト者であるかのように、しかも、牧師であるかのように、神を讃えます。しかし、引用した同じ章の中に、戒めも書いてあることを彼は言いません。
 
 (イザヤ書、口語訳)
5:7
万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、
主が喜んでそこに植えられた物は、
ユダの人々である。
主はこれに公平を望まれたのに、
見よ、流血。
正義を望まれたのに、
見よ、叫び。
5:8
わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、
田畑に田畑をまし加えて、余地をあまさず、
自分ひとり、国のうちに住まおうとする。
 (イザヤ5:7-8、旧約聖書)
 
自分ひとりの王国に住んでいる、彼、シャローム氏のネット上の家であるブログは「聖書の聴き語り」→「讃美の家」→「その名は不思議」とタイトル名を変えています。その間に、私とのトラブルがありましたが、タイトル変更の真意は今のところ不明です。
 
 (イザヤ書、口語訳)
5:14
また陰府はその欲望を大きくし、
その口を限りなく開き、
エルサレムの貴族、そのもろもろの民、
その群集およびそのうちの喜びたのしめる者はみな
その中に落ちこむ。
 ・・・・
5:18
わざわいなるかな、
彼らは偽りのなわをもって悪を引きよせ、
車の綱をもってするように罪を引きよせる。
 ・・・・・
5:20
わざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、
善を呼んで悪といい、
暗きを光とし、光を暗しとし、
苦きを甘しとし、甘きを苦しとする。
5:21
わざわいなるかな、彼らはおのれを見て、賢しとし、
みずから顧みて、さとしとする。
5:22
わざわいなるかな、
彼らはぶどう酒を飲むことの英雄であり、
濃き酒をまぜ合わせることの勇士である。
5:23
彼らはまいないによって悪しき者を義とし、
義人からその義を奪う。
 (イザヤ5:14-23抜粋、旧約聖書)
 
彼の欲望は、偽善と隠蔽をいくら指摘されても収まることがありません。「その口を限りなく開」くつもりなのでしょう。どうか彼といっしょに「落ち込む」ことのありませぬように。
 
彼は、偽りを持って悪と罪と偽善を引き寄せます。
 
偽善は「悪を呼んで善と」言うことです。彼、シャローム氏は、根拠をあげて指摘する批判を、荒らしと言いました。その根拠は・・コメントが多いから・・だそうです。また、彼は、自分は歓迎していないのに書き込むから削除すると言いました。批判ですから、歓迎はされないでしょうし、それは、承知の上です。まさに暴君であります。
 
彼の記事「いのちのパン」に私が書いたコメントを
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27405956.html
 (現在、コメントは削除され、コメント欄は閉鎖されています。)
 
私の記事「いのちのパン?」に書いたことがあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18423721.html
 
>誰が何を言っても自分の正当化しかできない、
>他者の非難中傷しかできないstさん、
>これからもstさんからのコメントは荒らしコメントとして
>削除することを伝えておきます。
 
彼は、相手が荒らしかどうかの判断を、自分がすればよいと思っているようです。自分がそう思えば、それが正しい、これこそ自己中心の極み、罵詈雑言に匹敵する暴言です。偽善者である彼、シャローム氏が、このようなことを言うのは「おのれを見て、賢しとし」ている証拠です。私が言っていることの根拠を全く無視して、「自分の正当化」によって、丁寧語で残酷なことを平気で言ってきます。丁寧語は、使い方によっては罵詈雑言よりも酷い侮辱になるということです。彼は、批判を非難中傷と呼んでいるようです。誹謗中傷のことでしょうが、どちらが・・と言いたくなる。丁寧語に、くれぐれもご注意を・・。
 
彼は、他者との交流としては、賛同意見しか受け付けていません。賛同者に対してだけ、社交のお世辞を言います。感謝や軽い謝罪もその類ですから、彼の言説を否定するような意見は、みな、荒らしと見なすのでしょう。それが分かってから、彼の丁寧語に騙されないように気をつけています。彼が信仰についての真実の追求するための真剣な意見の遣り取りを求めていないことは明らかで、彼の姿勢は常に、自分の言うことを聞け、という内実だけなのです。
 
キリスト者の立場から考えれば恐ろしいことなのですが、真実は、彼の中で完成し、訂正不能となっていて、その根拠は、聖霊による神の啓示だそうです。これが、カルトでなくて何なのでしょう。だから、コメントを削除されるに至っても、彼が私の記事を読んでいなくても、野放しになっている彼のサイトに好意的に関わる人を一人でも少なくするために、批判をやめることは、キリスト者として出来ないのです。最終的に裁くのは神でありますが、そのことを承知の上で、私は、私の出来ることを、使命と判断して今も続けているつもりです。私のような年寄りが・・と思われるでしょうし、個人として、あくまで言論によることですが、これは、偽善者糾弾の宗教闘争であります。
 
また、彼は、キリスト者でもない理屈好きの賛同者のことを、理屈の中身も理解できないのに、浮かれて誉めそやし、次のように言っています。この賛同者は、私を攻撃し、私は、一日100コメ超の遣り取りを強いられました。
 
>> st5402jpさん
> お帰りなさ~い!せっかく易坊さんから親切に声をかけてくださったのに、
>何も得るものがありませんでしたか。
 ・・・
>2016/3/31(木) 午後 8:19[ shalom ]
 
シャローム氏、彼は、彼にとって都合の悪い面倒なことを、人が忘れるのを待っているかもしれないので、こういうことは、その都度、書いてゆかなければいけませんね・・以上・・。
 
 
(2016年09月29日)