自分を崇める者
 
 その名は不思議
 あがめられるのは主のみだ
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27718744.html
 2016/9/29(木) 午前 11:20
 
 
人の意見を聞かず、封殺し、削除し、コメント欄を閉鎖して、自分の立場を偽装し、そのことを隠し続けている彼、シャローム氏は、まだ、記事を書く資格があると思っているようです。神を恐れぬとはこのことです。彼は、今、声をあげて、神を蔑ろにしているのです。
 
神は、いかなる者を用いられるか分からない、どんなに卑しく見える者も、神によって、用いられることがあり得るだろう。しかし、神は、自らを神の前に低くすることが出来ず、神に対しても人に対しても、偽りを言って、それにもかかわらず、知らん顔をしている者を、用いられることはない。偽善者は、聖三位つまり神とキリストと聖霊が、最も嫌う者である。
 
>ブルンナー先生の「信仰なしに」がどんな意味かわからない。
>しかし、あふれる喜びより低い水準であるのはたしかだ。
 
>そのとき、牧師の語る説教は、牧師自身よりりっぱだ。
>モーセの語ったことばもモーセ自身よりりっぱだった。
 
ここに、信仰なしに説教をし、洗礼を授けていた人の話が出てきます。そこで、4行目のようなこともあるという話です。
 
しかし、神が人を選ぶときに、そんなことは関係ありませんね・・。上の先生にしても、パウロにしても、信仰よりも言葉が立派だから、ということも、何か私たちが知らず、神が見込んだところがあるかどうかも、神が、例えばパウロに対するように、大きな逆転の悔い改めの機会を用意しておられるかも、聖書を読んでいる私たちが、あずかり知らぬところで起こっているのですから、とやかく言うことではありません。
 
大事なのは、聖書の話として、パウロは、迫害者から、神の導きによって、悔い改めて、キリスト者になり、使徒になったということです。
 
カルト信仰者は、人間を見ようとせず、それゆえに、人間の限界を知らず、それゆえ、何ごとにつけ、神を解釈しようとします。結果を受け取ればよいものを、結果を受けてどうするかということが人間には大切なことであるのに、神の意志を自分は知っていると誇りたいのです。そして、いろいろ説明しては、知るはずのないことまで言及して、馬脚を現し、ぼろを出すのです。
 
神は、人を選ぶのに、人に理解させる必要はありません。私たちは被造物です。
 
人は、神を信じるのに、神を理解できるわけではありません。私たちは被造物です。
 
 
>神の選びは人の選びとは異なる。
 
>使徒パウロはその手紙で、神はなきに等しいものを選ばれたと書いています。
>しかし、パウロはイスラエル社会ではエリート中のエリートだったのです。
 
パウロがエリートというのは、パリサイ人としてであって、神は、パウロをエリートなどとは思っていないでしょう。パウロは、手紙等を見ると、言論の上手な人のようです。それでも、信仰を宣べ伝えるのに、人の才能は、役に立たないことを実感して、「なきに等しい」と言ったのでしょう。しかし、偽善者のカルト信仰者は、それでは気が済まないようで、人間など関係なく神の奇跡だ!と言わなければ納得しないのです。
 
確かにパウロの回心は、目からうろこ、の諺にもなっているように、劇的なことでした。奇跡と言ってもいいでしょう。しかし、彼、シャローム氏が、言っているような、超常世界のストーリーではなく、パウロの回心は、起こるべくして起こったのだろうと思います。パウロは、いずれかの時点で、殉教してゆくキリスト者に気高さを見出したのではないか、という解釈もあるでしょう。
 
しかし、彼、シャローム氏は、彼自身の気づかないカルトの立場にしっかり立って、すべてを奇跡まみれにしてしまいます。奇跡によって、突然、目と耳が開かれたという見方です。すべてが神の奇跡だとすれば、その後、パウロが歩んだ道も、語ったことも、人間とは関係のない、神に支配によって、操り人形のように、パウロが行ったということになります。こういう解釈は、人間が何もしなくてよい、という主張になり、楽をして益を得たい偽善者には好都合ですが、もはや、回心にも、信仰にも、伝道にも、人間は何も関わらずに進むことになります。このような信仰を、人間である私たちは、どう信じようがあるでしょうか。
 
>神の御業は神によって開かれた目、耳でなければ、
>人の目で見ていては見えず、人の耳では聞こえることはないようです。
>ですからパウロも「誇る者は主を誇れ」と述べているのです。
>あがめられるのは主のみだ。
 
詐欺師独特の口調と主張です。既に「誇る者は主を誇れ」と彼に言う資格はないと批判されているのに、また、同じことを言ってくるのは、前に述べた、人間とは違う不感不応の力なのです。また、「神によって開かれた目、耳」どころか、彼は、人間らしい目も耳も持ち合わせてはいないこと、これも、前に言ったことですが、彼は、また、同じことを書いてきます。
 
信仰は、人間のために、神が人に与えられたものです。人には、分かることと分からないことがあります。ですから、人が分からないことを分からないと言うことは、とても大事なことなのです。分からないという真実を正直に言うことで、人は、神の前に敬虔であり得るのです。
 
にもかかわらず、彼、シャローム氏は、神によって開かれた、という確かめようもない、目と耳のことを言って、人に、超常の恵みがないと、見えないし聞こえないのだ、と言っています。まさに、彼が、見えず聞こえず感じないことを、神にせいにして、いずれ神がすべてを解決してくれる、という、身勝手な思い込みを広めることに躍起になっているのです。
 
彼は、思い上がって、自分の信仰についての見識が人よりも優れていることを誇りたいだけなのです。人間のことが、ここまで分からなくなると、何を言っても、その結果を気にしなくなるのでしょう。まことに、人の意見を聞く必要を感じなくなった非人間というのは、閉じた目と塞いだ耳で、口だけ、このようにも、恐るべき外道の図々しさを示してくるということでしょう。
 
 
私たち人間は、どのような場合も、ここではこうすることが正しく教えを守ったので自分は正しい、とは言えません。何故なら、原因と結果のすべてを把握して、権威をもって、正しさを決めるのは、神以外にはいないからです。
 
神の前に、私たちは正しいとも正しかったとも言えない立場を学ぶべき存在です。ゆえに、私たちが受け取るべきことは、まさに、私たちも、神には分かっていることが、分からないでいる「無きに等しい者」だということです。この自覚こそが、人が救いを必要とする所以であり、神が人を救おうとすることとして様々のかたちで聖書に語られている所以なのです。ここを読み違えて、権威や正しさを主張して、分かったつもりになることが、カルト信仰を生むのです。
 
 
(2016年09月30日、同日一部修正)
 
蔑ろ(ないがしろ)
躍起(やっき)