人間と奇跡
 
 
キリストの生涯と伝道について
福音書の記述は簡略で
細かい事情や情感は目立たないことがある
 
登場人物には
それぞれの生まれ育ちがあり
今に至る暮らしがあるのだし
 
キリストとの出会う人々のことも
人間としての情感に溢れた心の動きを
補って辿ってゆく努力が必要だろう
 
福音書はキリストの奇跡物語と言われるが
救いの奇跡が中心というだけではなく
人がどう動いたかを見る目が必要だ
 
救われたい人々が救いに至るまでに
超常ではなく歩いた悲しみの道も
振り返るべき奇跡の路程である
 
 
救いの必要な人がいました
キリストが来ました
奇跡が起こり救われました
奇跡が起こったのです
キリストは偉大なり
で済ませる話ではないはずだ
 
超常の奇跡信仰者は
そこに人間性を見ようとしない
さらに人間を思うのは信仰に反する
とさえ思っている向きもある
 
そういう者の聖書の話に登場する人物は
陶器のような顔をした泥人形か
土偶のようなものになるのだろうか
 
そういう読み方をして
聖書を語る者にこそ
土偶の形容は相応しいだろう
 
神は人が勝手に御心を使うのを防ぐために
神の領域の動きを人には知らせない
と推測するならば
 
例えば聖霊は
神とキリストと同じ位格だから
人が今降りたと分かる御方ではない
 
聖霊は知らないうちに来て
人に働きかけ
悪と偽善を阻んで正しさへ導く
 
何か安らぎを得たと感じるとき
物騒な話をすれば
悪霊の欺きか誘惑であることもあり得る
 
悪霊は聖霊に劣るが
人の霊よりは賢いからだ
 
聖霊は誰にでも訪れるけれど
それが分かるのは聖人だけであり
聖人は聖人らしい言動をするだろう
 
人は背伸びしてはならない
ひょっとしたらこの世には
聖霊も悪霊も満ちているのかもしれない
 
 
人間についての理解なしに
いくら神の偉大さを説いても
読んだことにはならないのが聖書である
 
信仰は神と人との関係だから
人を見なければ関係は分からず
信仰を分かっていない片落ちになる
 
人が泥人形であるはずはない
人間が今と昔で
大幅に変わるはずはない
 
奇跡が起こるには必ず
それを必要とする人間の苦悩があり
そこを読み取ることが出来ない間は
まだ理解できていないと判断するべきだ
 
救いは突然降ってくるようなものではない
救いを必要とする人間が
キリストの救いの意思に適うプロセスがある
 
神と人の双方向と言ったのはそのことで
 
キリストによって
あなたの信仰があなたを救った
と言われる者がいて
 
キリストによって
行ってしまえ
と言われる者がいる
 
その違いを際立たせるのが聖書であり
それはときに行間に
ときにキリストの言葉として語られる
 
神は泥人形を造ったのではない
その神の前であるからこそ
心のない人間などいないのである
 
人の不全を知る立場からの祈りには
もはや砕かれた魂の叫びとして
キリストの生きた心が反応している
 
「見える」「守っている」と言う者には
その立場に高ぶりを見て
キリストの厳しい戒めと教えが下される
 
救いを必要としているか
神の民として相応しいかは
キリストによって見分けられている
 
聖書は奇跡を並べて
偉大な神の救済を伝えているだけではない
人間の本性と本質と実存を表し
情感をもって受け取るべき話に溢れている
 
聖書を読むことは
聖句の簡略な表現の向こうに
救いを必要とした人々の生き様を見ることで
救いを与えようとする神が
どう反応しているかを補いつつ進むのである
 
教えのキーワードとして
神の民、人の不全の立場、双方向、を加えて
それを一生をかけて求めてゆくのが信仰である
 
キリストと人々の
感受して反応し合う福音は
また聖書として
神と人との
感受と反応を求めているのだろう
 
 
(2016年10月25日)
 
土偶(どぐう)
阻む(はばむ)