肉体の復活
 
 「神のわざの最高峰」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27765484.html
 2016/10/26(水) 午前 7:50
 
 
解釈によっては別の仮説も可能ではありますが、聖書は、キリストの肉体を持った復活を説いています。これは現代の常識では、理解できないことでしょう。これは、史実か、という問題があります。史実だと信じる信仰者は、このことを声高に主張するのです。彼、シャローム氏も、その一人です。頑強に、これだけは譲れないと言いました。復活に対する私のスタンスについても述べてみようかと思います。念のため、私のスタンスに過ぎないので、私にとっても絶対ではありません。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
15:12
さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。
15:13
もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。
15:14
もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。
15:15
すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。
15:16
もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。
15:17
もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
15:18
そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
15:19
もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
 (1コリント15:12-19、新約聖書)
 
聖書が、これほど肉体の復活を説いている以上、私が、その実感を持てないのは罪であります。一方、彼、シャローム氏などが、肉体の復活を主張する者たちは、さて、どうでしょう。彼らは、肉体の復活を主張しながら、そのことに慢心して、今のことを省みない者になっています。肉体の復活へのこだわりが、彼らを、現実から遠ざけ、人間の心から遠ざけているのです。
 
肉体を持った復活を信じる、このことに、いったい誰が実感を持てるというのでしょう。二千年前の当事者以外、二千年前の出来事に実感を持つ、ということが、土台、無理な話なのです。せいぜい、そんなに言うんなら、信じるよ、に留まるなら、このことが、生きてゆくうえで、どういう幸いに結びつくと言うのでしょう。その点なのです。
 
信仰が現実の中で、人間を支えるために、むしろ、二千年前がどうだこうだと、こだわることで、要らぬ議論を巻き起こし、まるで、そのことを信じるか否かで、信仰が正当かどうかを試すような考えを持つ者が現れている。そういう騒ぎが、むしろ、一方で、今、直面している様々な、個人的問題、および、一般的問題から、目を逸らす原因にさえなっているということを考えます。
 
ゆえに、聖書は言っているが、確かめられないことだから、このことについては、実感が湧かないから、分かったとは言えない、ゆえに、前から言っているように、分からないことは、分からない箱に入れておくしかないのです。
 
肉体の奇跡にこだわる者たちは、魂の奇跡を疎かにする。
 
彼、シャローム氏を見ていると、そう思います。それが、彼という反面教師から学んだことの一つです。信仰が、大仰になり、預言者気取りになり、心を見なくなり、言葉や事実に表面的にこだわるようになり、結局、屁理屈と詭弁を生み出しています。
 
 
自分の教理にこだわる者たちは、同じように、キリストの肉体にこだわり、その結果、キリストの人格面での尊い心に触れることがない。彼らは、言葉の奇跡の事実性にのみ執着して、キリストの肉体の復活を盾にして、人を計り、執拗に、あってもなくても今の人間にとって薬にも毒にもならないようなことを、さも奥義のように唱えている。
 
そういう人間味のない信仰を持ってしまった者が求めているのは、神秘を理解し得たと人に吹聴したいがための、奇跡の実在であり、これを見よと、彼らが述べるのは、彼ら自身を高めるためである。奇跡が事実としてあったという事実を信じるほどに、自分の信仰は厚い、と誇っている彼らの醜態を見てほしい。
 
 
>イエスの遺体がなかった。けれどもそこにいた天使が語りかける。イエスは死人の中にはいない。生きておられるのだと。神はイエスを死から解き放って、よみがえらせた。

 
私たちが信仰者であるために必要なことは、へりくだり、かつ、自分に正直であり、そして、神の前に正直であること、ゆえに、次のことを言いたい。
 
父なる神様、キリストの霊は聖霊でありますから信じて、その恩恵は限りないものであると承知いたしておりますが、キリストの肉体については、二千年前の奇跡を信じよ、と言われても、実感がないのです。私たちに、肉体や物に起こる奇跡よりも、「見ないで信じる者は幸い」と、魂に起こる奇跡の大事さを教えてくださったのは、主よ、あなた様ではありませんか。肉体が復活したかもしれないし、しなかったかもしれない、と思っているのですが、どうか、
 
主イエスの肉体の復活に実感をもって信じているとは言えない私をおゆるしください。
 
(キリストを信じていなかったら、祈ったりしないだろう・・ということもある。
 キリストの霊を信じている、と言いかけて、霊と肉体?・・ひょっとしたら、
 今生きている人間に影響を与える存在というのは、
 霊とか肉体とかで割り切って分けることなど出来ないのかもしれない、私たちは、
 この世の感覚に支配されているから、そういう言い方をしているだけかも・・
 ・・危ないかな・・よく分からないので、また考えてみます、、)
 
 
彼らは、「見ないで信じる」とは、キリストの復活は二千年前だから、今の人には見えないが、見えない大昔のことを事実だと信じるのが信仰、とでも言うのだろう。それを信じることが、いかなる幸いをもたらすと言うのか。彼らは、損なっているもののほうが、はるかに多いのである。
 
「見ないで信じる」とは、物や肉体に起こる奇跡を見ないまま、物や肉体に起こる奇跡を根拠としないで、心を動かされ、魂を打たれることで、信じるに至る、ということだ。キリストの処刑に立ち会った女性たちは、そういう信仰だったと推測する。人間性の奥義において、女性たちは、悲しみのうちに主を信じていたのである。
 
人の本性の悪しきところで、不思議を自分のものにして、自分は分かっていると言いたい者たちが、二千年前のことを、誇るように、自分は見ないで信じている、などと言うのだ。その結果、最も大切な、人間であることを疎かにしたので、「うなじのかたい」者になってしまった。項部硬直の者たちは、信仰を、心で決めつけてしまったので、硬直した心の目で見ても、信仰の最も大切なところが見えないのである。まさに、奇跡を見て、人間を見なくなったのである。
 
ゆえに、彼らは、キリストの肉体の復活にこだわって、そこがなければ信仰はないかのような脅迫の態度で人に臨みながら、一方で、赦されることを拒むような恥ずかしい偽善の罪を犯しても、その罪に気づかないで、罪を認めもしない。そういう者に限って、そこがなければ信仰ではない、というような、大切なことについては、彼らは、結局、見逃してしまったままのなのだ。
 
主イエスの肉体の復活に実感をもって信じているとは言えない私をおゆるしください。
 
という祈りをしなくてもよい、自分は肉体の復活を信じているから、と思う者は、キリストが大事にした人間の心を、疎かにしていないか、考えたほうがよい。実感を持てないのに、言葉だけ信じたと言い、それが信仰のつもりになるのは、心の向く先が、人間から、超常へと変わっている可能性がある。私は、その典型を見たからだ。キリストの肉体を持った復活を強く主張しながら、同時に、偽善とその隠蔽をやめようとしない者がいるからだ。人間にとって実感がないことを信じると言って、それが正しい信仰だと思ってしまうのは、超常信仰の特徴である。
 
信仰は、神のわざである奇跡に詳しくなるために信じるのではない。信仰は、赦され救われるに相応しい人間とは何かを求める道である。いつまでも、起こるかどうか分からないことに、気持ちを奪われていてはいけない。
 
 
(2016年10月27日)