恵みの堂々巡り
 
 ただ恵みによって
 2016/10/29(土) 午前 11:0
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27770466.html
 
 一文無しの自由
 2012/10/25(木) 午後 2:36
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23604166.html
 
 
まず、この記事は、身を慎むとか敬虔であるとかいうことを弁えない者によって書かれています。人の意見を聞かず、無視し、ブロックし、削除し、書く場所をも廃止して、自分の言いたいことだけを言う、そして、他者の意見が読者に見えないように、また、自らの為したこの偽善がバレないように、事の経過を隠蔽する者によって書かれています。悔いることも改めることも知らない者によって書かれています。
 
>イエスさまも「一文なし」だった。しかし、一文なしでじつに豊かだった。自由だった。
なぜか。神さまと自分の垂直の関係を軸として、まかせ切っていられたからだ。
わたしたちも苦しんでまかせ切ったとき、不思議な救いが上から来る。キリスト教史はその積み重ねだ。
ルターも、日本の新島襄や、内村鑑三も、ほんとうにまかせ切って、それを体験した人々だ。
ごくふつうのクリスチャンにも、そういう人が無数にいる。
地上の宝から手を放すと自由になる。神の力がわかる。無一文でも力が出る。
「なにもかも神におまかせしなさい」(第1ペトロ5・7) <写真は庭の茶の花>

 
何もかも神に任せる、ということの出来ない、彼、シャローム氏は、自分を守るために、私が上に書いたようなことを、あくなき執念で続けています。彼の書いたこと載せたことが、彼の偽善を浮き彫りにします。彼は一文無しになる世間体に耐えられない、即ち、彼の信仰が彼にとって飾りに過ぎないことを自ら証ししています。
 
>イエスは人がどんなにご自分の言葉やわざによって救いを信じ、期待しても、
そのような信仰は必ずつまづき、イエスを見捨て、裏切ることを知り抜いておられたのです。
また決して自分の言葉や業によって人を救うことはできないことをもご存じだったのです。

 
彼は、キリストの言葉から、いちばん大事なこと、即ち、神の愛から、人の愛と弁え、ということを、学ぶことが出来ず、彼こそが、神とキリストの言葉とわざを、救いの奇跡の連なりと受け取るだけで、彼の聖書理解としてしまったのでしょう。それだけをありがたがっている彼が、神が、キリストが、と声高に言うとき、彼に見えているのは、自分は救われる、自分は救われる、という繰り言以外、何もなくなるのでしょう。そういう信仰だから、人の言うことなど聞かなくても成り立つと思ってしまうのでしょう。
 
>イエスは神の御子であるにもかかわらず、貧しさの極みである十字架の死によって、
私たちの罪の贖いの代価として、ご自分の命を捧げられ、
神はイエスを死人の中からの甦りによって、
イエスがだれであり、イエスによって成就された神の救いの恵みを証ししてくださったのです。
私たちも自らの一文無しの貧しさを通して、その恵みに与ることができるのです。
イエスは幼子を招かれました。幼子はまさに無一文だからです。

 
上に述べたように、彼は、一文無しの貧しい信徒になってはいません。この世の見栄や体面にしがみついている俗物の極みです。彼が記事を書けば、俗物根性が表れる、という繰り返しなのに、また、同じことを書いてくるのです。この世に仕えることが第一義で、その体裁で神に仕えるふりをして得意になっていた人は、真に神に仕えることを知らないのです。その報いを受けても、なお、目が覚めず、神を讃えておけば、何かいいことがあると、まるで、ご利益宗教に縋りついて何度も何度も、おみくじを引きなおす者のようです。
 
彼は、丁寧語の釣り針に引っかかった賛同者にお世辞のエサを与える以外は、いかなる意見も聞かず、カルト的自分信仰の怖い強さを見せています。キリスト者としての、我を失ってしまって、あらゆる忠告も批判も無視して、自分自身からも自分以外からも目を背けて、信仰者として弁えるべきことを抜きにして恵みが自分に来ることを無根拠に信じ込んで、それがどういう様態を示すことになるかを、盲目的に表し続けています。すべての教理と倫理と道理を無視して、道なき道で、ゼンマイが尽きるまで回り続けるオルゴールのように、独りでスピンし続けるのです。それが信仰だと、誰かに向ける媒体もなく、スピンし続けるのです。
 
 
>「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。
神の国はこのような者の国である。
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、
そこにはいることは決してできない。」
(ルカによる福音書18章15~17節)

 
前に何度も私が注意喚起した、言うに事欠いたときの、「幼子のように」(文句を言わずに従え)というやり方を、絵に描いたように、聖句だけポンと出して、注意点の指摘も解説もしない、・・彼は、その典型を実践して、記事を結んでいます。彼は、もはや、幼子どころではなく、意地の悪い子供レベルの無知によって言い張っているようです。
 
 
(2016年10月30日)