仮説と想像
 
 
聖書に表された絶対の神は
この地上も天界も支配する
 
神は
この世もあの世も支配する
だから
この世の悲劇に見えることも
神の支配下となり得る
 
 
しかし私たちが
時が来て召されたのち
私たちは
地上の意識を持っている間は
会うとしても御使いばかりで
神には会えない
 
神を恐れるためであり
人の身の程を弁えるためである
 
神にとって人は
地上において小さい存在者であり
召されて土に帰り
神の国においては小さい霊である
 
召されたのち
人はかたちを持つ必要もなくなるのだろう
 
 
神格は人格的側面を内包しているが
神格は総てを支配する摂理でもあるからだ
 
 
人は
神を自分と同じような形態を持っている
などと断定してはいけない
 
人の思い描く神のイメージは
余りにも拙く不細工である
 
古代においては
人の認識が未熟であったため
神格は
人のかたちをもって
人に君臨することを説いたのだろう
 
それは嘘ではない
神格は人格に反応し
人格は神格の導きに反応する
 
しかし私たちの思いなど
芥子粒ほどの価値もないほど
神は雄大であるならば
 
カルトや自分信仰者などの
お粗末な天国妄想など
ただちに吹っ飛ぶだろう
 
 
神は有形であり無形である
神は形而上であり形而下である
神の下に
地上の多くの対立は同値となる
 
私たちは
神の人格に反応する一側面に縋りついて
それで十分に癒され救われるように造られている
 
カルトや自分信仰者の
神に思い上がった教条の
貧相な概念とイメージの把握など
神にとっては
糞尿にも値しないだろう
 
 
私たちは知らないことの幸いを知るべきである
 
何故なら
こう書いてもまだ著しく不足であり
誤謬なのである
 
 
(2016年10月31日)
 
芥子粒(けしつぶ)
縋りつく(すがりつく)
拙い(つたない)
 
この記事は、すべての終止形に「かもしれない」を付けるべきかもしれない・・。