詭弁教室?
 
 子よ。しっかりしなさい
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27773674.html
 2016/10/31(月) 午前 10:24
 
 しっかりしなさい!
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/487016.html
 2009/4/18(土) 午前 11:07
 
 
既に批判され、明らかにされた詭弁は、二度と使えないのが普通ですが、彼、「シャローム氏の詭弁塾」、とでも言いたくなるように、言い逃れを、同じ調子で言ってくる、というのが、特徴になっています。人間をやめてしまった人の常同行為に付き合って、また批判を重ねることは、私だけで、十分でしょう。「関係ない」「問題ない」「気にしない」「記憶にない」という答弁の悪い政治家にそっくりな、感情鈍麻と現実検討能力喪失の、彼、シャローム氏を、批判し続けています。
 
 (マルコによる福音者、口語訳)
2:1幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、 2:2多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。
2:3すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。 2:4ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。 2:5イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
2:6ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、 2:7「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。
2:8イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。 2:9中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。
2:10しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、 2:11「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。 2:12すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。
 (マルコ2:1-12、新約聖書)
 
キリストの奇跡と、キリストが罪を赦す資格を持っている、という話。
 
>律法学者は人々に律法を教え、人々を指導監督する人です。
>人が神の律法を守るなら神に祝福されるが、守らないと厳しい裁きを受けると教え、
>律法を守らない人を神に呪われた汚れた人と裁き、交際を禁じたのです。
 
>同じように、神ひとりのほかに罪をさばくこともできないからです。
>ところが律法学者は律法を守らない人を汚れた人、罪人と裁いていたのです。
 
>律法学者の言っていることは正しいように見えますが、
>自分の言葉、していることが見えていないのです。
>私たちにもよくあることですが、気づかないのです。
 
律法学者が、イエスがキリストであることを知らないために、罪を赦すと言ったことを責めようとするが、キリストは、彼らを批判し、また、赦す権威を持っていることを言葉と奇跡によって示す、という話です。
 
長いブログの経緯と彼の癖から、シャローム氏は、律法学者が罪を裁くことを批判して、それをもって、あきらめの悪い彼は、自分を批判する者を、律法学者と同等に見て、不当な批判によって裁かれている自分を憐れみたいようです。
 
病気も罪と見なされた時代です。中風になって、それを罪と見なされ蔑まれている人を、キリストは、「(言われているような)罪は赦された」と、権威をもって、言われ、癒やされたのです。この中風の人が負わされている罪と、彼、シャローム氏が、自ら故意に、かつ、自分のためだけに、犯した、意見のブロック、削除、意見の場の閉鎖、さらにそのことを隠蔽する操作すべて、という偽善の罪と、どう関係があると言うのでしょう。醜い詭弁教室です。
 
>自分をあるがままで愛することもできず、本音と建前の間を心はさ迷い、
>互いに他人の顔色や世間体を気にしながら生きることが日本人の習慣になっているようです。
 
あるがままでなく、世間体を一番に気にして、偽善を行ってしまうのは、これこそ、まさに、彼、シャローム氏の、罪と、その動機なのです。
 
>イエスは中風の人に向かって、病気のいやしを求めて来たのに、病気のいやしよりも先に
>「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされた。」と言われました。
>私たちはいろんな問題で悩み苦しみますが、
>なにより先に必要なことは神による罪の赦しなのです。
 
彼、シャローム氏は、批判者と読書を騙すために、偽善を施しました。病気の癒しではありません。シャロームさん、しっかりしなさい、と言っても、彼、シャローム氏は、不感不応です。なのに、言い逃れだけは止めないのです。ここまで人間性を捨てられる人は、珍しいのです。恥ずかしいという感情が、人に対しても、神に対しても、なくなっているのです。
 
>汚れた人、罪人というレッテルを張られ神に見捨てられているとされた人に向かって
>「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされた。」と声をかけておられるのです。
 
シャローム氏は、汚れた人で罪人ですが、それは、どの人も、私も、同じです。彼、シャローム氏の、特異なところは、元々、罪びとであることを社交以上には認めておらず、いかなる非も認めていないということです。認めてもいない罪だから、告白も、改善の努力もせず、ゆえに、赦されることも拒んでいるのです。
 
>この生ける神の赦しによってはじめて
>私たちは裁きあいと、まあまあと罪をあいまいにする生き方から救われ、
>心の痛みやからだの病気の癒しを体験することができ、
>悩みや困難でさえ神の恵みとして益としてくださる神と共に生きることができるのです。
 
また、いつものように、自分を除外した、罪深い「私たち」の話をして、罪を曖昧にしない生き方を説いていますが、その筆致が、殆ど、詐欺師の美味しいだけの話と似たものになっています。裁き合いを批判したいようですが、彼は、神の前に正直に、へりくだることが出来ないのです。罪を隠して認めず、そのまま癒やす神への信仰を唱えているのです。それが、神の恵みだと言っているのです。キリスト者というのは、決して、このような人ではない、ということを強調しておきます。
 
中風でも卒中でもないのに、彼の、激しく常同の開閉運動を繰り返す口角からは、だらだらと唾液が、だらしなく流れているような気がしてなりません。いつになったら、彼の、胡散臭く、へばりつくような粘液質の、言い逃れの粘着は消えるのでしょう。毎度、ため息が出る思いですが、私が生きている間は、批判できる間は、彼の詭弁に誰も騙されないように、甚だ不充分ながら、努めてゆきたいと思っています。私は、彼の偽善を、そして彼が隠蔽する操作を、削除される側として、PCのディスプレイを通して、目の前で見てきた目撃者だからです。
 
キリスト者は、罪を犯したときに言い逃れはしません。たとえ間違って言い逃れたとしても、それが神の前に空しいことを知っているキリスト者は、必ず、悔いて告白し、信仰の態度を改めて、神が顧みてくださることを祈るのです。
 
自分の非を認めないということが、いかに醜いかを知ってください。どんなに言っても、悔いることなく改めることのない、卑劣な正当化ばかりを謀る不潔な業(ごう)の強さ硬さを知ってください。これを、悪いお手本、反面教師として、こういう人にだけはならないように、神によって解放された人々は、信仰を新たにしてくださるように祈ります。
 
 
(2016年11月01日)