努めるとは
 
 
信仰において努めるとは
愛することだと言えば
言葉は正しいが
その分だけ空しくなるほど
人はそうそう変わらない
 
むしろ信仰によって
自分が変わった
あるいは解放されたと思うのは
人の価値基準からの自由ということだった
 
人の基準に合わせることから
自由な心を得ることは
決して小さいことではなかった
それは生きる軸を
初めて希望することだからだ
 
それまでの当たり前は当たり前でなくなり
当たり前ということが新しくなる
 
それが目に見えて分かると言うほどではないが
それを見たいから求めて努めるようになる
 
しかし私たちが努めるべきことを
言葉に表すなら
多くの人は神を知ることだと言うだろう
あるいは御心を
よりよく知ることだろう言うだろう
 
そうではないと私は言う
 
神は知ることの出来ない御方として君臨している
 
だからその御方を知って・・
・・と続ける向きもあるだろうが
 
聖書やキリスト教について
知識を得て出来る限り知ったとしても
それは信仰にも生き方にも
大した影響はない
 
信仰の真実はそこにはない
 
むしろ
かなり知ったと
前より言えるようになったと
思い上がることの弊害の方が大きい
 
努めて
神ではなく
人を知るべきである
 
神を知ろうとしても
努める時間や労力ほど知ったとは言えないが
 
人を知ろうとすれば
努力すればするほど
人をより良く知ることは可能である
 
人といえば自分も他者も
同格の生きている存在者だからだ
 
信仰は
神の生き方を教えてはいない
信仰は
神を教えてはいない
 
信仰は
神を人知の及ばない御方として教える
 
神について知ろうと努めても
知ったという結果は何も見えてこない
 
信仰が神を教えたと
信仰によって神を知ったと思うことのほうが不遜なのだ
 
信仰は
人の生き方を教えている
信仰は
人を教えている
 
人とは何かを
善かれ悪しかれ
一般的にも個人的にも知るために
出来る限り努めれば努めるだけ
 
経験という形で蓄えられるのは
多くの人の当然であるが
 
信仰は人間の関係の中で鍛えられてゆく
 
人間の関係の中に
聖書と信仰の観点を持つか持たないかが
信仰者と非信仰者の違いである
もちろんそれは優劣を意味しない
 
一人の人間が信仰者になるのは
どう考えても不思議な縁である
しかも因は分からないままである
 
信仰に縁付く
キリストに縁付くと言う・・
 
その縁にあって
私たちが知るべきは
予断を許さない群れの中に遣わされる羊として
集団に関わりながら生きる使命を持つ人間として
人間を知ることであり
人間を表すことである
 
それは信仰が当然のごとく要求し
信仰者が生活の中で示したいと志すところの
人間の
神に対するプレゼンのようなものであるが
 
人に見せるのではなく
神に見ていただくためである
 
成果を評価してもらうためではなく
経過を支えていただくためである
 
信仰は
人に見られることがある以上に
神によって見られている
 
救うべき人は人の世界にいるのだから
神は人の世界の人を見るだろう
 
そのことに真剣でありたいなら
信仰者が努めて知るべきは
神の世界ではなく
人の世界である
 
それを信仰生活と言う
 
信仰生活を勘違いしてはいけない
 
信仰によって
超然として高みに住まうのではない
逆に
入り乱れて泥を食らうのでもない
 
ただ救われるべき人は
信仰によって
人の世界に生きるということだ
 
またさらに
信仰者の関わる人の世界には
これから救われるべき人もいるということだ
 
祈りという避けどころを得ている信仰者は
日々の捧げものとして自らの明け暮れを
ありのままに捧げることが務めである
 
信仰は
人間の生き方を学ぶため
信仰は
人間を学ぶために与えられる
 
 
(2016年11月02日、同日一部修正)