正義を唱えるよりも
 
 「イエス・キリストを土台とする」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27777312.html
 2016/11/2(水) 午前 10:03
 
 
転載記事です。言葉だけ正義を熱心に唱える記事は、讃美ばかりしている彼、シャローム氏のお気に入りのようです。また、本来は関わりのないはずの人の記事を批判することになります。
 

わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。

 
聖句なんでしょうか。唐突に話が始まっています。岩の上に建てた家は倒れないが、砂の上に建てた家は倒れる・・という譬えで、信仰の土台の話へと続きます。キリストが、譬えで、人々に言ったのなら、あり得る話なのです。しかし、既に聖書を呼んだ者が話すとすれば、あまり深みのない、当たり前の話と言えるでしょう。キリスト者は、ときに、このように、易しい道徳のような話をして、話しえた気分になることがあります。何か言い得ていないような、この違和感は、自分は岩の上に立てているのかどうか、また、岩の上と、砂の上と、どう見極めるのか、ということを書いていないからでしょう。
 

私たちはまず深く地面を掘り下げ、岩の上に家を建てるべき。最近あった堤防決壊で水が勢いよく流れているのに、一軒の家はビクともしなかった、と評判になった。その工法は地中に打ち込む設計になって土台を強固にしているからだと。杭打ちを中途半端にして傾いたマンションとは大違いだ。

 
地面を掘り下げ、岩の上に家を建てるべき、と言っています。土台が大事ということですが、これも、たとえ話のまま書いているので、この話自体が、掘り下げていないと思います。
 

家作りは建物としての家の見栄えが注目されるのだが、本当は土台が注目すべきなのだ。なぜなら、平時には問題ないが、いざ、地震や、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけられたときに、倒れないか、流されないかと心配になるから。

 
ということで、見栄えよりも、土台が大事ということで、土台がしっかりしていないと、艱難の時に弱いということです。あくまで信仰を喩えているのですが・・
 

私たちの人生にもこのような出来事がある。そのとき、依って立つ土台がないと、恐れに支配されてしまう。私たちにもこういしたことが起こる。そのとき、試される、しっかりした土台に建っているかと。また、どこに建てるかに焦点を当てている。それがポイント。その場所はイエス・キリストを土台とするところ。

 
ポイントと書いて、土台はキリストだと書いています。さて、土台が何であるか、弁えているか、ここがいちばん大事なのですが、この記事では、土台がキリストであることを前提に書いているようなので、本当にそうなのか、ということが書かれていないようです。
 
私は、全くキリストと違う土台の上に建てられた、「讃美の家」その後、改名して「その名は不思議」という家を批判しています。管理人の彼、シャローム氏は、この記事に感動したので転載したのでしょう。ところが、シャローム氏の建てた家は、自分を善く見せるために反対意見をブロックしたり削除したりする偽善と、それを隠蔽する罪によって今も続いている、さらなる偽善を、悔い改めることなく、赦してくれるような、とても気安いキリスト?を土台としています。このことだけからも、言うまでもないことですが、それが、シャローム氏の都合で捏造された偽キリストであり、真のキリストではないことは明らかなのです。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
3:10
神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。
3:11
なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。
 (1コリント3:10-11、新約聖書)
 
いったい、彼、シャローム氏は、どうして真のキリストから離れてしまったのか。土台を据えるときに、キリストへの浅い理解で、既に勘違いしていたのか、それとも、既に据えられている、この世の見栄え、という土台があって、その上に信仰を建てようとしたために、あっさり、この世信仰に呑まれてしまったのか、いずれにしても、今は、情けないほど、キリスト信仰とは名ばかりで、上に述べたように、見栄えのためなら、手段を選ばず、前に騒がれたビルの建築偽装と同じように、偽装と隠蔽に走り、その成果を、日々彼の慕う偽キリストに捧げているのです。
 

私たちは「私にはできませんが、あなたはすべてができるお方ですから、私を明け渡します。あなたのなそうとするままに、私の内になしてください。あなたが私の土台ですから。」と言えるのだ。

 
キリストが土台だから、明け渡すことが出来る、と言っています。キリストに自分を明け渡す、ということは、そう言えば済むような、そんなに簡単なことなのでしょうか。
 
人が信じるということには、必ず、偽物が現れますから、それを問題として語るのでなければ、こういう話は、信仰自慢にしかならないでしょう。偽物の可能性を、前提のように、あっさり除外しているようなところに、偽物は好んで棲み着きます。そして、偽物は、自分に都合の良いように、都合の悪いものを隠すか消すかして、元から無かったという見栄えにするのです。
 
その典型を見たからには、キリストが土台、キリストが土台、と繰り返し言われても、もはや、それだけの言を信用することは出来ないのです。怖いことに、偽物は、偽物の可能性を考えないことを信条としているようなのです・・。
 

イエスが求めていることは、信じること、とどまること。とどまっていなければ、実を結ぶことはできない。イエスを離れては、私たちは何もすることができない。そうするれば、イエスが私たちの内に働いてくださり、実現してくださる。

 
私たち人間が、土台の上に築くものなど、嵐の前にひとたまりもないような気がします。信仰は、キリストとの絆、という土台だけなのかもしれません。大方は偽物なのかもしれません。キリストとの絆、そこに留まるためには、自分の中の、見栄えとか、体裁とか、余計なものの可能性を、自分のうちに、前提として除外せずに、折に触れて、祈りのうちに、自分という人間の信仰者の立場で、神の前に捧げることが大事だと思います。
 
神の前に、低く弱い存在としての人間であり得るなら、同じ人間の意見に不快な反応をして、人の意見を粗略に扱ったりはしないし、ましてや、削除や隠蔽をすることもないでしょう。神を信じると言って、意識・無意識に関わらず、人よりも高い気持ちを持った時から、人の心は、偽物の培地のなるのです。
 
神の前に恥ずかしくないように、という気持ちがあるならば、神の前に恥ずかしくない人などいない、ということを忘れているのです。聖句と教理を繰り返し、その前提で終わっている信仰には、熱心さの方向が見えていません。
 
確かに大事なのは、言葉上は、キリストを土台とすることですが、偶像崇拝と同様に、人間は、土台をいつも確認できるほど、しっかりした生き物ではありません。むしろ、キリストが土台、と繰り返し言うことよりも、土台に虫のように張り付いてくる、人の産物や飾りを見つける努力のほうが大切です。それらの虫は、必ずと言ってよいほど、張り付いてきますし、湧いても来るのです。人は、内なる害虫に敏感であるべきです。人は、その属性として、虫けらの培地です。
 
いつのまにか、自らが虫となって、人を無視して、教理と聖句で合理化してしまって、強さを、信仰ではなく、意地と体質に依存して、人間世界を、また、キリスト信仰の世界を、蝕んでいるような、彼、シャローム氏を始めとする者たちを批判しています。
 
信仰を蝕む虫になる危険は、誰にでもあります。特に、自分を、あらゆる悪や背教や偶像崇拝から、やすやすと除外して、熱心な信仰と伝道をしているつもりの心には、自らの悪に気づかないという隙が生まれやすいのです。
 
人は、知恵と知識を積む以上に、偶像と思い込みを積みやすい生き物なのです。信仰があるから・・という安心は、ときに、最も、厄介な虫の、至適な培養環境となり得ることを知るべきです。
 
神の前に低く、謙っているつもりでも、熱心に語るうちに、人よりも高い所に立って断定したり豪語したりを好むようになって、トラブルや艱難が訪れたときに、自分の立ち位置を確認できず、反省できず、何を言っとるか、という調子で、とんでもない敵に襲われているという被害意識しか持てなくなっていることもあるでしょう。
 
信仰の堕落と偶像化を防ぐのに特効薬はありません。キリストを土台として、というような、しっかり整えることをいくら言い聞かせても、自分がキリストの土台を知っている、という前提を誇ることになっているに過ぎない場合もあります。
 
神の前に、いかに自分が低い存在であるか、という切実な感慨を、努めて温めて、改めて新たにする必要があるでしょう。これは、自分が人間であることを弁えればできることだからです。人の心は、属性において、内なる寄生虫と、ばい菌と、悪魔と、魔性と、罪と偽善と、合理化と、言い逃れと、言い訳がましさと、悪をごまかすペテンの培地です、・・ときに、そのものです・・。
 
 
(2016年11月03日、同日一部修正)
 
見栄え(みばえ、見映え)
粗略(そりゃく)
弁える(わきまえる)
蝕む(むしばむ、虫食む)
隙(すき)
艱難(かんなん)
謙る(へりくだる、遜る)