子供だまし
 
 子どものように
 2016/11/21(月) 午後 0:15
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27810454.html
 
 神の国と子ども
 2010/1/9(土) 午前 8:19
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/11365833.html
 
 
>人々は子どもをかわいがりもしますが、自分の都合次第では、
>うるさがったり、じゃまにしたりもするわけです。
 
他者が反対意見を言うと、自分の都合で、うるさがって、意見をブロックしたり、削除したりするような、厚顔無恥の牧師もいるので、注意してください。
 
>「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、
>決してそこに、はいることはできません」(マルコの福音書10章15節)
>と言われたように、子どもたちの心にこそ、神の国がある
>とご覧になっておられたからでありましょう。
 
>そのように子供には疑う心も、危険を察知することも、
>理性も知性も経験もありません。
>ただ親を信じ信頼してすべてを任せるしかなく、
>それが最善だと信じているのです。
>イエスは「そのような子供のようになければ神の国に入ることはできません」
>と言われたのです。
 
前に何回も書いてきたことです。引用聖句はそういう箇所なのです。こういうことを言って、幼子のように、文句言わずに、逆らわずに、従え、と言いたがる牧師がいるのです。
 
>吉川英治という作家は、「我以外はみな師だ」と言いましたが、
>子どもたちも私たちの学ぶべき立派な師、先生だと言えます。
 
こういうことを言って、賛同者を社交のお世辞で、分かってもいないのに、誉めまくる一方で、反対者を、人とも思わず石ころのように見なして、人間として扱わない牧師もいるのです。そして、反対者など、いるはずがないと思い上がり、反対意見を強制力で消して、何の反対もなかったかのように偽装して、証拠を隠すような、偽善一途で、学ぶことをしない牧師もいるのです。
 
>ある日、イエスはパリサイ人で、ユダヤ人の教師であるニコデモに言われました。
>「よくよくあなたに言っておく。
>だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」
>(約・ヨハネによる福音書3章3節)
 
新しく生まれることを、言葉だけ説いて、信仰に至ることを説明できないものだから、変わることのない平安に至っていると得々と語って、変わることのない、ということを、詭弁の不変不感不応の正当化の根拠にして、人を無視し続けている訂正不能の牧師がいるのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
1:9
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10
彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
 (ヨハネ書1:9-13、新約聖書)
 
「神の子となる」については、良識あるキリスト者は、いくらなんでも、キリストになれるとは受け取りません。キリストは、私たちの飼い主そして救い主なのですから、それになる、など、誰も言えないはずのなのです。神の家族として、迎えられる人間として期待される、ということを言っているとしか思えないのですが・・
 
その悪しき誤解~曲解のほうをを取って、神の子となる力を与えらえたとばかり、教理を受け入れた自分が、並ではなく、信徒を導く力のある牧師だと気取って、その立場から、決して非を認めず、反対者を侮辱し、虫か何かであるかのように無視して、何も聞かない、何も見ない、しかし、言いたいことを言う、という、子供だましの神?からの、終身特別扱いを得たかのように、考察という考察を、思考という思考を、感受という感受を嫌って、上から一方向の同じセリフの独善教理を繰り返して、いつでも平安?の救い?の中にいるかのように見せかけている牧師がいるのです。
 
>イエスはニコデモに言われました。
>「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか」と。
>人の知性や理性、経験を超えた神の言葉だからです。
>それは今も変わることはありません。
 
そのことから、自分の信仰は、知性、理性、経験、などの人知で説明できない議論不要の啓示だと、言い張っている牧師もいるのです。
 
>人の手によって十字架につけられながらも、
>イエスは神の御手によって十字架の上に差し出されていることを
>神の幼な子として信じ受け容れておられたのです。
>それが神のみこころであり、最善だと信じておられたからです。 
 
幼子の比喩を、彼、シャローム氏は、ここで、キリストが言った言葉をキリストに当てはめます。どんな表現も、どんな罪も、啓示を得ている自分が勝手に扱ってよいと思っているのでしょうか。そして、自分が言わなければ・・とでも思うのか、神の意志を決めつけるのです。彼に語られるキリストは、彼の教理の中のキリストであって、彼によってどのようにでも表される彼の分身なのです。そのように、自分を聖化してしまった、彼、シャローム氏の、言説は、幼児語と丁寧語と詭弁という、偽善の誘惑しか持ち合わせていません。
 
わけの分からないことを、不変の真理として全肯定して信じ込むことは、信仰ではありません。信仰には、人間が共感を持ちうる真実があります。人間は、何らかの感動を動機として信仰の世界に入るのだから、言葉に表すのは難しいけれど、努める価値のある、人間ならば分かるだろう、という、わけがあるのです。それを、私は、甚だ不充分ながら、書いてきた、というより、求めてきたつもりです。そういう共感を、まるで理解できないために、魔法と奇跡の超常を繰り返して自説を広めようとする者がいるのです。
 
 
(2016年11月22日)