節操
 
 
自分の解釈と体験を絶対化することは
自分の信仰を絶対化すること、
ついには自分を絶対化すること。
 
神を信じるとは
神が自分を救ってくれると信じることでもある。
しかし、信仰は自らの絶対性を否定することだから
それだけだと節操がない。
 
どんなに悪いことをしても
人を傷つけ殺したときでも
神は自分を救ってくれる
と信じることが可能になってしまう。
 
信仰の節操とは、
自分が信じる神が、
何してもOK、という、おめでたい神ではなく、
救われるために、最低限の条件とか戒めとかを
人が、心構えとして、持つべきことである。
それは、神の民として、
人が
人としての身の程を弁えるための分別とも言えるだろう。
 
信仰は、
信じます、と言えば、何をやっても問題ない、
という、保険詐欺の契約とは違うからだ。
 
最低限と書いたが、
キリスト信仰においては、
福音書の中でキリストが求めたものであり、
それは必要十分条件であり、
それさえあればキリスト者であり、
それがなければキリスト者ではない。
 
信仰の節操は心構えであるから、
守ることに苦行は必要ないものである。
 
何かを達成して救われるのであれば、
何かは、神のレベルになり、不可能である。
 
達成することで神を喜ばせることは人には不可能だということを
神は十分にご存知であるから、
神はそれを救いの条件とはなさらず、
 
人間が自ら、
人の努力の及ばない大事なときに、
神よりもはるかに不全であることを認め
神ご自身にのみ救いを求めることを
神は人間に要求している
と考えるゆえに
 
そのことのみを神は
信仰の節操としたのではないかと思われる。
 
それは
聖書の中の救われた人々は皆それを持っていた
ということを根拠とする。
 
前から言っていることだが、
真実の全能の神に対して偽りは通用しない
ということを弁える必要がある。
 
神は総てを見抜かれるというのに、
現代、現実に、その節操を曲げて、
それでも信じているから恵みを受ける
と言い張っている者がいることは誠に嘆かわしいことである。
 
人は、
神に対して祈るとき、
祈り願うことが
自らを誇ることであってはならず、
神の意志と行為の断定であってはならず、
救いの脅迫であってはならず、
心なき暴言であってはならず、
真実の心ではないお世辞の讃美や感謝であってはならない。
 
しかし何よりも一言で言えば、
偽らないことが最も大事なことである。
 
神の前の人の立場は、
へりくだっていること、
他に救いのない罪人であることであり、
 
この世の利益を受けることがあっても、
信仰めいた言葉で
この世に魂の救いを求めてはならない。
 
神は、妬む神である。
 
人がキリストや聖霊を知ったと言うべきではない。
私たちは人格であり、
神、キリスト、聖霊は、神格である。
 
 
(2016年11月28日、同日一部修正)