地上信仰の無根
 
 根を張る (2009.11.16)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27825801.html
 2016/11/30(水) 午前 10:00
 
 
自分の言葉のみならず、転載の選択にも、転載した人の心は表れてきます。前半の飾りと、後半の常套句、こういう文章を、彼、シャローム氏は、こよなく愛するようです。前半は、頷けばよく、後半は、知っている範囲のことで、深く考える必要がないからです。このような説教ならば、予定調和の救いに、ぴったりと当てはまるからでしょう。
 
>大きな木は、こんなところにと驚く先まで、時に地上に太い根をあらわし、
>また沈んで木を支えている。
>キリストの教会も大小さまざま。そして教会の根っこも外からは見えない。
 
信仰の根、性根、根性、といったものが、変質し腐ってゆくのも、外からは見えません。腐れが、言動という現象として、表に出てくるまでは。
 
>「あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」とは
>パウロのことば(ローマ11・18)。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
11:17
しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、
11:18
あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。
11:19
すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。
11:20
まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。
11:21
もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。
11:22
神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。
11:23
しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。
 (ローマ11:17―23、新約聖書)
 
>ときに教会内で人間の思いが前に出て、
>キリストに心から聴く態度がうすれると、対立や党派心が生まれ、
>大きな教会が急にさびれることがある。会衆があっというまに消えることがある。、
>キリストに根を張っていないからだ。
 
対立や党派心は、それを乗り越える努力をすることで、神に任せる、と綺麗ごとを言って無視するよりも、思考と反省を促し、個人や教会を成長させるのですが、努力を一切しないでいいと思っている信仰は、安易に「キリストに根を張っていない」と決めつけるでしょう。自らの信仰を省みなくなると、訪れるのは、無条件の無根拠の自己正当化です。
 
>人は会堂の「大きさ」や、会衆の「多さ」で教会を量るが、
 
これは、シャローム氏の大好きな、自分を含まない悪い「人」「私たち」を、自分は違うという前提で、ぼろくそに言っている例です。・・そうとは限らない。人それぞれですから。
 
>キリストに根をはった教会こそ風雪に強い。
>「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、
>あふれるばかりに感謝しなさい」(コロサイ2・7)
 
 (コロサイ人への手紙、口語訳)
2:6
このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。
2:7
また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。
 (コロサイ2:6―7、新約聖書)
 
「キリストに根を下ろして」という、どうとでも解釈されそうな聖句を盾に、彼、シャローム氏は、彼の腐れた根性にしがみついて、反対意見の削除という強制力に頼らなければ維持できない貧相な信仰?を、隠し事で守ろうとする醜態に至っているのです。
 
そして、あふれるばかりに感謝する表面の見かけだけを飾ってきたので、いつも言葉の断定だけによって大仰に感謝し讃美することで、神もキリストも常套句の言葉の断定を持ち上げるだけになり、成長を拒んで不感不応の人間離れの無明において、もはや人間の心を失って人間の言葉が使えなくなっても、どんでん返しの奇跡が、道理も何もなく、どかん!・・と救ってくれると、わめきながら、壊れた打楽器を打ち鳴らし続けるのです。
 
人間の心を失えば、人の言葉も、神の言葉の解釈も、曲解から妄想へ至る道です。
キリストは、言葉に表された信仰ではなく、人間の心を顧みる御方だと信じています。
 
今日も似たような聖書語と丁寧語で、信仰?の言葉だけを振り回して慢心する信仰?が、ひどい有り様になってゆく足跡を見るにつけ、私たちの信仰が、どこを基準に正しいと言えるのかというのは、どんどん頼りないものになってゆきます。
 
しかし、そのことは、信仰の原初でもあったわけです。自分の頼りなさ、ここに気づいた者が、信仰を求める道を選んだことの成り行きは、何らかの役目のために選ばれたことの成り行きでもあります。・・決してこの地上で、完成の境地を望んではいけません。
 
どこに聖霊が、どこに悪霊が、宿っているか分からない人の言葉も、神の言葉を解釈した人の言葉も、鵜呑みにするのではなく、絶対のないこの地上に絶対を持ち込むのでもなく、さりげない日々の祈りに、自分という人間の、主への思いの丈を込めてください。それだけが、すでにすべてをご存知の、神聖に対する人間からの音信なのです。そこで偽らないこと、それが信仰の芯です。
 
祈るとき、誰が、キリストの理想像を思い描かずにおれましょう。祈る相手が、自分の描いた理想像であることを認めて、それゆえに、自らの不全と不可知の自覚を新たにし、神の全知全能を恐れ、不束なこの自分に、キリストの慈愛が偶像を超えて、試練の懲らしめと戒めと、時々の恵みと慰めと、罪の赦しと、病と傷の癒しと、ちり灰からの立ち直りと、自分の時までの息の導きを、魂の運びを、そして、予定調和の安穏ではなく、時々の平安を、祈らないではおれないのです。
 
 
(2016年12月01日)
 
顧みる(かえりみる)
芯(しん)
不束(ふつつか)