詭弁教室(5)
    ・・いのちをむさぼる者
 
 神の命と肉の命の違い
 2016/12/24(土) 午後 10:12
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27865192.html
 
 
今回も、悔い改めなくても救われるのだ、という聖書の曲解と詭弁です。毎度毎度、ひどい詭弁です。やはり、クリスマスだからといって、家族の不幸があるからといって、信仰の文章を社交の世辞に替えることは出来ないと思います。リンクも付けることにします。それほど、あまりにも、ひどい詭弁を並べています。
 

聖書には理想の教えが書かれていて、主を信じる人たちは
その理想に出来るだけ近づく努力をしている人たちだと思っている人たちがいます。
ですから、やはり問題はまだまだ自分の努力が足りないのではないか。
やはり自分の努力次第なのだ、と思う人たちが少なくありません。
わたし自身も長い間、そのように思ってきたところがあります。
そうなると、理想の教えと思っているわけですから、
聖書を読むことも少しおっくうになってきます。

 
理想でなければ守れるはずですが、実際には守れません。では理想かというと、少なくとも、キリストの教えは、守れる者が一人もいないことをもって、罪なき者が一人もいない、ということを教えています。
 
そのことが教えなのであって、守るための教えではないと思います。つまり信仰によって罪を赦され、救われるのですが、ただ、罪を認めず、キリスト者としての体裁だけを偽装し、神の前に偽る者は、罪人ではなく偽善者であり、パリサイ人と同じであり、キリストを殺した者たちと同じであり、行ってしまえ、と言われるだけなのです。
 
何故なら、信じると言ったら、あとは、何をしても救われることになります。それは、あり得ないです。罪人が赦され、さらに、偽善者も赦されるなら、何のために主に選ばれたか分からなくなります。
 
本気かどうか、また、いつまでも本気かどうか、などの問題もあります。神はそれを見抜いていても、この人はどうこう・・と教えてくれるわけではなく、人には分からないことなので、言動から矛盾かどうかを見ることにもなります。裁くのは、神です。それは、恐らく、有無を言わせない神の強制力でしょう。
 
キリスト者としての節操は、あります。それが、神の御心に適うような立派な働きが求められるということではない。神の前に何も誇るものを持たないこと、すなわち、ただ信仰者であれ、ということだけなのです。
 

ローマ7:18-20
わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、
善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。
なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、
わたしの内に宿っている罪である。(口語訳)

 
>与えられている神のいのちに生きずに、別のいのちで生きようとしている、
>そこに問題があることに、パウロ自身も気づいていました。
 
それに全く気づかず、よく見られたいという欲を、信仰の善に見せかけている者がいるのです。パウロは気づき、キリスト者も気づくことを、気づかないふりをして、偽善を働く者は、なんとか、罪も偽善も悔い改めなくても救われる、という結論を引き出そうと、聖書を悪用し、都合の良い聖句の言葉を利用して、自己正当化を謀ります。
 
>「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
>いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、
>当然の支払いとして認められる
 
恩恵としてではなく、当然の支払いとして、認められる、という聖なる御方の慈愛を、書いてあるから、当然なのだと、人間の側が、そうなんです、とそのまま喜んでいいのでしょうか。「弱さを誇る」と同じようなことです、誇ってはいけません。
 
さらには、無条件の無反省のまま、罪を赦され救われる、という、詭弁の、さらなる詭弁によって、言い張っていいものでしょうか・・否です。ゆえに、あからさまに偽善によって背くなら、受ける報いはどうでしょう。これも当然の支払いなのですが・・。
 
>しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、
>その信仰が義と認められるのである。
>ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、
>次のように言っている、
>「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、/さいわいである。
 >罪を主に認められない人は、さいわいである」。
>(新約・ローマ人への手紙4章2~8節)
 
不信心、不信仰と、偽善による背きは違います。背きは、罪を犯し、偽善を働きながら、自らを罪なき者のように振る舞うことです。これは、神に直接背く最も重い罪です。詭弁に騙されないでください。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:1
兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。
10:2
わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。
10:3
なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。
10:4
キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。
 (ローマ10:1―4、新約聖書)
 
救われるのは、律法を守るからではない、という話を持ち出します。そのことを、働きによらない救いと絡めて、やはり、罪を悔い改める必要はない、という方向に持っていこうとします。これまでの記事と合わせて、暗示する狙いのようです。ここまで、節操も分別もない信仰?は、今のキリスト者の中でも珍しいのですが、その報いを与えるのは、神以外にはいません。
 
私たちが、神によって救われるために、立派な働きは必要ありませんし、律法を守ることにこだわる必要もありません。しかし、信仰者であり続けるために、節操として弁えるべきことは、やはり、あるのです。彼を見ていて、それをつくづく感じます。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:5
モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。
10:6
しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。
10:7
また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。
10:8
では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
10:9
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
 (ローマ10:5―10、新約聖書)
 
私は、この地上で、信仰とは正反対の方向を主張し、それを、あたかも、キリスト信仰であるかのように、広めようとしている者を批判しています。どこがおかしいかを指摘しています。私たちは、天国についても地獄についても、知りません。天国に上るか地獄に下るかを決めるのは、神のみの仕事です。それを裁きといいます。
 
「心に信じて義とされ、口で告白して救われる」とあるように、信仰のみによって救われる、ということです。救われるためには、心に信じること、これは、いろいろな考え方があるでしょうが、口で告白することとは、罪びとであることを告白すること、そして、神への態度をその都度に改めること、すなわち、悔い改めることです。
 
それを、すっ飛んだ詭弁によって、信じるといったら、あとは反省も、悔い改めも必要ない、信じるといっただけで、あとは自動的に救われる、と言い張る者を、そうですね、と認めることは出来ません。その者が、好きなように言い広めるのに、何もせず、これも神の御心だから、などと、神の意志と行為を決めつけて、放置する理由にすることは出来ません。彼の記事を見ると、いつも、そう思います。
 
 
(2016年12月25日、同日一部修正)