信仰の逆説
   ・・コメントから編集したもの
 
 
信仰は、信じることではない、と前に書いたことがあります。
 
キリストの教えをただ信じて守る、というのは、信仰ではないと思います。何故なら、キリストの教えは、守れないからです。キリストの教えは、守れないことも承知の上で、罪なき人はいない、ということを教えていて、ここがキリスト信仰の中心ではないか、というのが、今のところ、私の考えです。
 
キリスト教は、信じ方によって、信じることが、天と地というか、信仰のみならず反信仰へも行きやすい宗教ではないかと思っています。
 
例えば、苦しいときに思いがけない幸運によって救われた人が感謝して、これは、神の奇跡だ、と信じ込んだとき既に、神の意志と行為を決めつけているわけです。これによって、これからも、苦しいときには必ず奇跡が起こる、と信じ込む要因になるでしょう。
 
信仰は、自分に超常的な奇跡が起こると信じることではありません。奇跡が起こるかどうかは神に任されているからです。人間が讃えていい奇跡は、せいぜい、人間にも理解できる魂の奇跡だけです。魂の奇跡を理解できない者に限って超常の奇跡をほめたたえるのです。
 
 
自分の考え方が正しいかどうかは、神を思えば、分からないという結論しか出てきませんが、少なくとも、批判対象の信仰観では、私は救われない、と、これは、強く思っています。私も、信仰を表現し伝えたい、という気持ちがあるなら、黙っているわけにはいかない、ということで、私もPCに向かうのだろうと。
 
感じ方や考え方は人それぞれだということは分かりますし、私は別に同じように感じ同じように考えよ、と言っているわけではありません。理屈めいたことも書いてはおりますが、私は、本来、論理は、あまり好きではありませんし、キリスト信仰は理屈ではない、ということで、批判をする一番の動機と理由は、コメントの遣り取りの中で、批判対象があまりに「汚い」「狡い」ことする、ということで、これでキリスト者だなんて・・と思ったことです。これは、疑問を呈したり反対意見を言ったりしたときに、はじめて分かることです。おっしゃる通り、怒りが動機であり、それをエネルギーとして出来る限り集中力に変えて、批判しているつもりです。
 
ストレスが原因というのも分かるのですが、批判することのストレスという意味なら、批判しないで関わらないようにしよう、を繰り返すことのほうが、心がつぶれてゆく感じがします。ですから、使命とか、私、どこかに書いたと思いますが、神の御心に沿うているかが不明なこの世では、使命感を具体的な拠り所には出来ません。それで結局は、自分の心が、人の前でも、神の前でも、比較的、伸び伸びできるほうを選んでいるつもりです。
 
仏教のことは、勉強もしていないし、疎いのですが、ときどき少し似ている、と思うこともあります。でも、仏教の人は、どうすればよいかを求めているような印象があります。何かをやってみる気力はある、という出発点ではないかと。私は、気力もなく、おびえきった心で、どうしようもない、というところから、今でも、キリスト者のつもりなんだろうと思っています。
 
 
(2016年12月27日、同日一部修正)