利用する者される者
 
 コロサイ1:13~14ー愛する御子の支配の中に移された!
 2016/12/26(月) 午後 10:15
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27868365.html
 
 転載元:コロサイ1:13~14ー愛する御子の支配の中に移された!
 2010/12/16(木) 午後 6:09
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/26788560.html
 
 
困ったときには、恵みばかりを強調して、罪深い自分というのはキリスト以前のこと、と思わせる手口になります。それによって、自分の仕出かしたことを、それでも赦される、と主張したいのでしょう。
 
そういう者が利用しやすい記事を転載しています。以前、彼が引用した文章の中に、キリストを信じた後でも、つまり今でも、罪がある、というようなことが書いてあったと思うのですが、それは無視したのでしょうか。こういう人の言葉に対する使い捨て精神を物語っています。
 
 (コロサイ人への手紙、口語訳)
1:13
神は、わたしたちをやみの力から救い出して、
その愛する御子の支配下に移して下さった。
1:14
わたしたちは、この御子によってあがない、
すなわち、罪のゆるしを受けているのである。
 (コロサイ1:13―14、新約聖書)
 
罪の赦しを受けている、というのが、現在進行形ではなく、現在完了形になって今は罪はなくすべて赦される、と言っている人を批判しています。
 
>エペソ6:12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、
>主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
>また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 

ここにあるように、この世を支配しているのはサタンである。生まれながらの私たちの主人はサタンで、私たちは奴隷なのだ。それでそのままでは永遠の滅びに至るしかない者である。しかし私たちの造り主の神は私たちが暗闇にとどまっていることを良しとはしないのだ。だからイエスが来たのだ。神が救いの道を備えたのだ。

 
こういう説教をすると、この世は、どこまでも敵になりますね・・。生まれながらサタンの支配だと言っています。キリストを讃えるためとはいえ、現実を無視して、この世を悪役にしています。しかも、その悪から、自分を除外するという態度が見え隠れしている、さらに、信仰者は救いのみに生きえているかのような転載元と転載者です。
 
キリストを受け入れたのは、紛れもなく、この世の罪びとたちなのです。
そして、この罪びとたちは、訂正不能の偽善者とは決定的に異なっていたのです。
 
人間理解の出来ていない者にとってのみ、このような極端な単純化が成り立つのでしょう。残念なことに、キリスト教においては、珍しいことではないのです。
 

神はイエスのいのちと引き換えに、私たちに永遠の滅びに至る道から、永遠のいのちの道にもたらされるプレゼントを用意されたのだ。それがクリスマスである。このプレゼントは誰でもが喜んで受け取ることが出来るのである。

 
誰でもが喜んで受け取ることが出来る?、誰もが、ではないでしょう?、現実にはキリスト教徒にならない人もいる、と考えるべきでしょう。・・極端な単純化のもたらすこととして、このような、全か無か、の断定があります。だから、こういう人は、往々にして、非信仰者を、軽蔑を込めて、憐れむのです。
 
私たち信仰者は、非信仰者と同等の存在であることを忘れてはなりません。このことは、実に、しばしば忘れられます。わがキリスト信仰は・・、と、のぼせ上がって誇るようになってはいけません。
 

私たちキリスト者は今まで罪の奴隷であり、サタンの奴隷であったのだ。キリストから離れていた私たちはこの世にあって望みもなく、神もない人たちだったのだ。
 
そのような者を神はイエスを自分の救い主キリストとしたことによってサタンの支配から救い出されたのである。罪の奴隷から神の奴隷に戸籍が変わったのである。

 
今は違う、と豪語する響きなのです。そして、キリスト教の現実の問題などには一切触れず、問題の共有など全然する気もなく、勝手なことを言って、ひたすら、自分の信仰の正しさを、永久不滅のものとして、誇り続けるのです。伝道でも何でもない打楽器です。
 

奴隷が解放されために払う身代金を神が支払ってくれたのである。それがイエス・キリストの十字架で支払ったいのちだった。御子イエスは私たちの罪の罰を受けるために来たのだ。事実、それを成し遂げてくれたのである。

 
すべてが為し遂げられたわけではありません。まだ途中です。というより、おかしなキリスト者の思い込みによって、歪曲され、単純化され、他者の意見を聞きもせず、コメント欄を閉鎖したり、コメントを削除したりして、全く無謬の魔界とされたところからの宣伝によって伝道は妨げられているのです。
 
>だから、神はイエス・キリストを自分の主とした者を罪なき者とし、肉体の死はあるが永遠の死へのさばきから引き離されたのである。

 
キリストを主としたのなら、キリストは厳しい現実の中で伝道し、厳しい現実に生きている人々を救ったのに、どうして、現実の問題を無視して、人間から離れて、超常は素晴らしいとばかり、説教したがるのでしょう。まるで、ほめ上げる機関銃・・。讃美も、このようになってしまっては、信仰の現実離れ、人間離れとなって、愛のないもの、情感のないものになってしまいます。
 

エペソ1:7私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

 

この神からの恵みを受け取った者は、新しい生き方に生きる者となるのである。なぜなら、恵みは本来、それを受けるに価しない者に対して、にも関らずの愛をもって一方的に無償で神から与えられるもののことであるからだ。

 
この部分を利用して、偽善者のまま、悔い改めなくても救われる、と主張している者を批判しています。ずっと、彼の仲間、偽善者の仲間でいるつもりなのか・・。
 

私たちはあわれみと愛の恵みによって救われている。その視点に立って日々に救いを喜び、感謝する者である。私たちには何一つ良きことがなく、また良きことが出来ない者でありながら愛され、神の聖徒とされている者だ。ねばならない、と言う強迫観念ではなく、神との関係の確かさを喜び、恵みをより確かなものとしていくことなのだ。

 
私たちは何一つ良きことがない、と言いながら、愛され、神の聖徒とされている、と神の領域を持ち出して誇っている文脈は、あなたは、救われて今は偉くなったのですか?、という疑問しか生みません。さらに、ねばならない、という強迫観念を戒めながら、具体性もなく、恵みをより確かなものとしていくことなのだ、と、漠然とした当為か理想だけを押し付けて、肯定せよ、というつもりなのでしょうか。このほうが、よほど脅迫的です。いったい何を伝えようとしているのでしょう。
 
このような、信仰の美辞麗句だけ語って、現実を語らない信仰の説教めいた記事が蔓延っています。こういう隙だらけ、穴だらけ、という空っぽ満載だから、とても利用しやすい夢物語の空約束として、信じると言えば偽善でも何をやっても救われると言う偽善者に、その本性を見抜けもせずに、転載されてしまうのでしょう。
 
 
(2016年12月28日、同日一部修正)
 
蔓延る(はびこる)
 
政治ブログも大変なようで・・