偽善者の知恵
 
 
 神の知恵と人の知恵
 2016/12/27(火) 午後 3:18
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27869297.html
 
 しるしを見分ける
 2011/1/28(金) 午前 10:55
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/18810564.html
 
 天からのしるし
 2009/10/20(火) 午前 10:22
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/8447339.html
 
 
自分の益のために手段を選ばない者は、批判されて言い返せなかったことを、持ち前の、人を人とも思わない不感不応の無頓着によって、何度でも繰り返し言い張ってきます。この無反省無神経の厚顔を相手にするのは、非常に疲れるのですが、偽善者のまま、悔い改めないまま、救われる、という彼の主張には、私は無抵抗ではいられません。
 
それは、この記事の中の次の言葉に表れています。
「いかなる宗教も人の罪の解決をもたらすことができない」
「人は自らの罪をあがなうために、罪深い自分の命をもってあがなうことはできず」
「人の知恵を超えた神の知恵であり、神による救いの道」
 
神の一方的な救いだから、人の思慮や情感など何の意味もなく、ゆえに神に愛された自分は、何をしても、どんでん返しの救いが与えられ、誰が何と言おうと、人の共感とは一切関係なく、罪も偽善も赦されて救われる、という主張に、聖句も教理も、結び付けようとしてきます。
 
>パリサイ人とサドカイ人は
>神と人々の間に立ち、神の民の歩みが常に神との正しい関係の中を
>歩むために大切な勤めをしていたのです。
 
ここに、頼まれてもいないのに、神の人々の間に立ったつもりで、自前の超常奇跡の信仰?を広めようとする者がいます。
 
>しかし、神の民が繰り返し罪を犯し、繰り返し罪のあがないの犠牲をささげても
>神の民の罪は繰り返され、決して人の罪の問題の解決にはならず、
>また神と人との関係も、人と人との関係も正すことはできなかったのです。
 
彼の言い分からは、まるで、人を救うためには、贖いの犠牲では足らず、人の罪の問題を解決するために、神が奇跡によって人に罪なし、としなければならないかのような書きぶりです。それは、偽善と隠蔽の罪を犯した彼が、信仰?によって自らを、罪なし、という結論にしないと著しく都合が悪いからです。人を人とも思わず、罪を罪とも思わないゆえに、こういう主張を繰り返します。
 
>その結果、ついにそれはユダヤ教という宗教になり、形骸化してしまったのです。
>神はそのことによっていかなる宗教も人の罪の解決をもたらすことができないこと、
>罪によって断絶した神と人と、
>人と人との関係が正されることがないことを示されたのです。
 
ユダヤ教が形骸化してしまったから、いかなる宗教も人の罪の解決をもたらさない、と言うのでしょうか。彼がしばしば言っているところの、キリスト信仰は、キリスト教という宗教ではない、という主張を言っているようです。キリスト信仰とキリスト教、彼は、言葉を変えただけで、説明を一切していません。彼は、ここに書いているような具体性のない常套句と美辞麗句を呪文のように繰り返すだけなのです。
 
>それでは神が神の民に与えられた律法は
>無意味なものでしかなかったのかというとそうではありません。
>神の律法は神のみ前における人の罪をあらわにし、
>その罪が人を罪の奴隷とし、
>罪の結果が人のすべての苦しみと死の原因であると告げているのです。
 
罪が人を罪の奴隷とする?、だから罪を無視する、という彼の信仰観?になるようです。彼の主張は、伝統的なキリスト教とも大きく異なっています。罪は人のものです。罪の奴隷となる罪は、人が犯す罪です。彼は、人間に関心がないために、人間を無視して、罪を指摘されて、苦しむのが嫌で、いい気持ちになるように、信仰を改変してきたのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
6:20
あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。
6:21
その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。
6:22
しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
6:23
罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。
 (ローマ6:20―23、新約聖書)
 
>人は自らの罪をあがなうために、罪深い自分の命をもってあがなうことはできず、
>ましてや、いかなる犠牲や供え物をささげる宗教によっても
>あがなうことはできないのです。
>罪の支払う報酬はただ“罪なき神の御子の死”のみなのです。
>(新約・ローマ人への手紙6章23節)
 
「罪の支払う報酬はただ“罪なき神の御子の死”のみ」とは、どういう意味なのでしょう。この聖句23節は、人の罪の報いは死である。しかし、キリストの贖いと赦しによれば、永遠の命である、と言っているのではないのでしょうか。
 
>神は律法による罪のあがないの約束を成就するためにイエスを遣わされたのです。
>ところが神の律法のプロであるパリサイ人とサドカイ人は、
>イエスを受け容れようとせず、
>神から遣わされたイエスに天からの超自然的なしるし、証拠を要求したのです。
 
>それがパリサイ人とサドカイ人とがイエスを試み、
>神による天からのしるしを見せてもらいたいと要求したいう意味なのです。
 
「超自然的なしるし」・・まさに、彼の信条である信仰を超常の奇跡とみることに合致しているので、私は、彼を、現代のパリサイ人と呼んでいます。その彼が、パリサイ人を批判しているのは滑稽です。彼は、パリサイ人も偽善者も救われると言っていたのですから。彼はキリストを受け入れた?けれど、そのキリスト?は、彼の分身または奴隷という偶像に過ぎません。だから、人間性を無視して、彼自身が超自然を吹聴するのです。彼は、とても危険です。彼こそ、天からのしるし、すなわち、奇跡のみを信じ、自ら思考停止を訂正不能にして、それが信仰だと言い張っている者です。
 
>その要求にイエスは答えられました。
>「邪悪で不義な時代は、しるしを求める」と。
>それは自分の善悪の基準による批判と議論による正当性、
>納得を求めることを示しています。
>それがアダムとエバが善悪を知る木の実を食べた人間の罪の本質なのです。
 
邪悪で不義な彼は、恐らく彼に反対する主張を「自分の善悪の基準による批判と議論による正当性、納得を求めること」だと言っているのでしょう。今までの記事とコメントから、それに対する、神の基準は、彼の主張によると、まさに、彼の善悪の基準による絶対律となっています。そして、神の啓示なり、と、批判も議論も拒否して、正当性も、納得も、必要ないものとなっているのです。アダムとエバみたいにならないように、正しさを判断するな、納得のために考えることをするな、と言っているわけです。それが彼の信仰です。もう十分ではないでしょうか。彼は、ここにおいて、馬脚を露し、邪悪な魂胆を惜しみなく表しています。
 
>そのことがイエスを十字架につけて死に至らしめたのですが、
>ところが、その罪なき神の御子イエスの死(血)が全ての人の罪をあがない、
>すべての人に罪の赦しを与える神の律法の成就であり、救いの道だったのです。
>神の民イスラエルは救いのために与えられた律法を空しい宗教的戒めとしてしまい、
>かえってイエスを拒絶して十字架につけたのです。
>神はそのイエスの死によって約束された救いを成就されたのです。
>人の知恵を超えた神の知恵であり、神による救いの道でした。
 
救いが二千年前の十字架によって既に成就し、救われて罪のない者となった、と言いたいようです。今、罪がないかどうか、誰でも、胸に手を合わせて考えれば、否、罪はある、これからも犯すだろう、と分かるはずですが、彼は、人間も、自分も、見つめることが出来ないので、埒もなく無罪信仰をでっち上げて、自己満足によって傲慢になり、社交の世辞以外の、交流も意見交換も、考えることも、感じ取ることも、損なってしまいました。そういう彼に近づくことは、ましてや、信仰と聖書の先生として従うことは、彼と同じ無罪信仰という、人間ではなくなるような道を選択することなのです。
 
私たちは、洗礼を受けたから、キリストの罪の贖いによって、それ以後、罪なし、となったわけではありません。今でも信仰者でも罪を犯します。私たちが罪を赦されるのは、聖書の中で赦され救われた人々と同様に、神の前に、隠し事が出来ないほど、心を虚しくして、すなわち、正直以外何も持ちあわせず、罪を悔いて告白し、神に対する態度を改める、という信仰の道を与えられたからに他なりません。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
1:21
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
1:22
ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
1:23
しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
1:24
召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
1:25
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
 (1コリント1:21―25、新約聖書)
 
自分の知恵によって神を認めるに至らなかった、と書いてあります。これは、人が頭と心で考えて、神はこうだと、神の意志と行為を決めつけることなど出来ない、ということを表しています。私たちは、聖書を読むことによって、また、他者の意見や信仰生活の体験を聞くことによって、その都度、完全ではないが、判断して生きてゆくしかありません。ゆえに、無罪信仰の無反省に陥ってはなりません。折に触れて、自分の心も頭も、思うところも行いも、正直に神に捧げて、赦しと癒しと救いと導きを乞うことが不可欠です。
 
それが出来なくなって罪を犯し偽善を働いて、悔い改めることも出来ず、その代わりに、自分の頭で、聖書に詭弁の解釈を加えて教理を捏造し、訂正不能に固定した者の詭弁の自己正当化に惑わされてはなりません。
 
 
(2016年12月29日、同日一部修正)
 
馬脚を露す(ばきゃくをあらわす)
埒(らち)
捏造(ねつぞう)
 
政治ブログも大変そうで・・
 http://blogs.yahoo.co.jp/eigyou111sekiyann