新しい命に吐かれる嘘
 
 新しい命に生きるかぎ
 2016/12/28(水) 午前 9:44
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27870411.html
 
 
新しい命というテーマなのですが、はっきり言って、信仰者になって生まれ変わった、という気持ち以上に分かっている人はいないと思います。自分は特別だと思い込んでいる者は、そこがカギだと、さも分かっているふうに言うのですが、読んでみると退屈するのがオチというくらい、聖書語の常套句を並べるだけなのです。
 
>主イエスを信じ、バプテスマを受けた人には、
>聖霊によって神の新しいいのちが与えられていますが、
>与えられているだけではなく、
>その新しいいのちに生きることが期待されています。
 
新しい命に生きるとは、ということの説明の出来る人はいないと思います。私にとっては、祈りによって告白し、願うということが出来るようになったこと、それによって、救いがたい自分にも、悔い改めて赦される道がある、ということ以上には、分かりません。
 
>問題は、長い間身に着けてきた「アダムのいのち」を生きる「古い人」です。
>その「古い人」が邪魔をしています。
 
何をもって古い人というのでしょう。生まれ変わったと言っても、どう見ても、自分は前の自分です。別のものに生まれ変わるわけではありません。新しい命は、古い命から入れ替わるのではなく、新しい目覚めとして生きるということでしょう。「アダムのいのち」を生きるとは、自分の善悪で生きる人の意なのでしょうが、これを書いている者が、まさに、自分の善悪と価値基準で、人を扱って、退けたり、ほめ上げたりしている人なのですから、聞いて呆れます。
 
古い人が邪魔をする、というのは、以前大事にしていたこの世の価値基準が邪魔をする、ということのようです。信仰による価値基準の更新によって、囚われなくなる、という自由世界があるのでしょう。それは、彼の言う世界ではありません。彼は、以前の、そして、卑しい、俗の基準に従って、結果、偽善に走っているのです。
 
>キリストの死にあずかるバプテスマ(洗礼)を受けた人は、
>キリストと共に死に、キリストと共に葬られた
 
このように、キリストとともに死んだのです、という聖書語による説明は、正しいように見えて、誰も具体的に受け取れる理解などないのです。分かることより、分からないということを弁えるのが信仰です。神は全知、人は不全です。
 
>問題の答えは十字架です。
>主イエスの十字架はあなたやわたしのすべての罪のゆるしのためでしたが、
>それだけではありません。
>あなたやわたしはキリストと共にその十字架につけられて死んだのです。
>「死んだ」というのは極めて決定的なことです。
 
答えは十字架です、と言われて、何か新しく目覚めがあるでしょうか。キリストの十字架は、信仰者なら誰でも知っていますが、どこが答えなのでしょう。むしろ、十字架が大事なことです、と言うのと殆ど変わらないのです。分かったことにしないと気の済まない者たちは、決定的、という言葉まで使って聖書語を打ち鳴らしますが、結局、この、死んだ、生まれ変わった、よみがえった、新しく生きる、などという教理的文言を並べることしか出来ないのです。何の糧にもならないのです。
 
>イエスに対してほかの多くの人たちは
>自分の思いや考えでイエスについて言ったのですが、
>ペテロのイエスに対する信仰告白はペテロ自身の思いや考えから出たことではなく、
>天の父なる神から与えられたのですと言われたのです。
 
自分の思いや考えでイエスについていった、と書いています。でも、そこには、何の共感もなく、つまるところ、自分は神からの啓示でいった、と見栄を張っているに過ぎないのです。その証拠に、分かっているような説得力のある内容や表現など、一つも見られません。聖書を理解するのではなく、聖書語に毒された者たちは、聖書を振り回して高ぶっているだけです。
 
>信仰告白したペテロに授けると言われた「天国のかぎ」は
>この世である地上で信仰によって生きる時、
>天国の扉を開けたり、閉じたりする鍵です。
>その鍵は人からではなく、イエス自ら与えられるというのです。
>その鍵を与えるために、イエスは十字架ご自分の命をささげ、
>私たちの罪を贖い、罪の赦しを与え、神の子としてくださったのです。
 
この話は何なのでしょう。比喩にしては響くものがなく、比喩でないならば、いったい何を見て語っているのか分からないような話です。彼は、天国の扉を開けたり閉じたりする鍵、持っているのでしょうか。彼は天国の管理人なのでしょうか。人間の信仰を語っているとは思えない絵空事、ふざけないでくれと言いたい。
 
>さらに、イエスを信じる私たち自身もイエスとともに十字架につけられ、
>死んでいることを信仰によって受け容れる時、聖霊の働きによって
>新しいイエスの命に生かされるという天国の扉が開かれるという約束なのです。
 
これも聖書語を教理通りに並べているだけです。読む人は、ここを読んで、分かったような気にならないでください。彼は悦に入って陶酔し、のぼせた頭で聖書の言葉の表面だけすくって並べているだけです。表面だけの信仰で、どんどん思考と感性が低劣になってきた証拠の一つを彼は表しているだけです。
 
>十字架という天国のかぎは天の父から与えられた信仰によって生きる時
>天国の扉を開き、
>信仰告白しても、なお生まれながらの人間性である、古き人という
>肉の働きによって生きる時、閉ざされるようです。
 
信仰告白して、人間性を捨てた者が、人間離れして、犯してはならない背きの罪と、隠蔽による見かけづくりという偽善を働き、それを今も改めていない、ということをずっと私は言い続けています。彼は、古き人ではなくなったのか、否、彼は、未だに、この世の世間体に隷属して、体裁を繕うことを信仰よりも優先しています。
 
彼のブログには、記事一覧表示にはコメント数が表示されているのに、見てみるとコメントがない、という記事が多くなっています。最近の記事にはコメント欄が閉鎖されているため、私が昔の記事のコメント欄に書いたものを多いのですが、彼は、ずっと、次から次に、そのたびに、都合の悪いコメントを削除、またはコメント欄を改めて閉鎖してきたからです。都合の悪いコメントに対しては、コメント欄を、彼は、改めて、いちいち記事ごとに削除してきたのに、神の前に、少しも自分を改めることだけはしません。
 
>イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。
>だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
>肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
>あなたがたは新しく生れなければならないと、
>わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
>風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、
>それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。
>霊から生れる者もみな、それと同じである」。
>(新約・ヨハネによる福音書3章5~8節)
 
ここを引用するだけで、読む人が分かると思っているのでしょうか。信用した彼は、分かっているのでしょうか。それとも、分からないから引用だけなのでしょうか。この聖句の、風のたとえ・・風、思い、音、聞く、きて、行く、知らない、・・誰か、自分は分かっていると言えるのでしょうか。
 
未だに、分からない、ということの大切さを知らないで、分かったかのように語る者たちの、聖書の言葉面だけをなぞって言い得たかのように言い張るのは、盛りのついた蛙のような、うっとうしい雑言が、聖書に表された神と人の切なる思いも福音も、損なってゆくのを感じさせるだけの、受けない大道芸に過ぎません。。
 
聖書は十字架によって、新しい命に生きることを勧めています。それは、生まれ変わって別ものになり、神の生きものとして生きることではありません。同じ人間が、価値基準の変革によって目覚め、いちばん大事な、ただ一つのものに憧れ、それを求める道を与えられたということです。何も完成はしていません。固定した平安の境地などありません。福音は、どんなに小さい身近なことからでも、私たちの信仰生活によって、行いと、祈りを通して、表されることを期待されているのです。
 
聖書語を並べただけなのに、人類で初めて真理の奥義を語ったかのように、強い断定で宣伝している者は、古き人を捨てよ、ということを勘違いして、何やら自分が、新しく神の国にでも生きているかのように、無感動の言葉の羅列によって吹聴したがりますが、実際の彼は、この世の価値に、なおも拘泥しており、いちばん大事なところで、今もなお、毎日のように、とても卑しい小細工をもって、反対意見を封殺し、コメント欄を賛成だけで偽装し、人を欺き、すべてを隠蔽したつもりで、ただ御一方、欺けない御方にも、真実の告白も悔い改めもしないで済むと思い込んで、そのうえで、背きの罪を、讃美の大仰さによって、誤魔化しているのです。それは、この地上で私が見た、最も醜い人の姿、偽善者でしかなかったのです。
 
 
(2016年12月30日、同日一部修正)
 
奥義(おうぎ)
拘泥(こうでい)
欺く(あざむく)