偽善織り
 
 教会は神さまの織物
 2017/1/6(金) 午前 10:16
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27887297.html
 
 教会は神の織物
 2016/1/7(木) 午前 9:36
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27183582.html
 
 
一所懸命に批判記事を私が書いても、彼は、しばしばコメント欄ごと削除する以外は無反応です。彼は読んでいないだろうし、記事のコピペを、彼のコメント欄の残っている記事に書き込んでも、それは大方、読まずに削除される定めのようです。彼には、信仰の有無に関わる大きな問題があるのに、彼は、彼の神様?に従って、無視するのが信仰だと思っているのでしょう。今日も、彼の無視の経過と結果として書くしかありません。
 
排せつ物に、ペンキと唾液を上塗りして、何か製本でもしたつもりで、広場に投げてくる老いたる偽善者ですから、投げ返しても、彼の造った壁に阻まれ、彼は気づかず、ひと仕事終えたつもりで、安穏の風呂に、実は彼の排せつ物に、どっぷりつかっていられる、という仕組みを作り上げて、名付けて、その名は不思議?と呼んでいるわけだから、批判には当然、そういう彼の、聖なる?仕組み、についても、今までの経過とともに、私も壊れながら、書いてきたわけです。彼の作文の出来は、彼の偽善に水垢のように結びついて、図らずも偽善を、彼と違って、雄弁に語っています。
 
縦糸と横糸を紡ぐたとえ話、彼が語れば、偽善が、いかに絡みやすくて厄介なものであるかを語っています。
 
>キリスト信仰も、丈夫で長持ちし、毎日着こなし、
>いざというときは周りのかたに「キリストさまは、
>すばらしいお方」と証ができる信仰に織り上げたいものです。
 
白々しい願望です。彼は、キリスト信仰とは正反対の織物を人に押し付けて、幼子のように彼の言うことに従い讃美せよ、と言ってくるでしょう。彼に隷属して人間をやめて跡を継ぐか、信仰によって解放されるかの分かれ目です。
 
>つむぎ始めの糸は細く、すぐ切れやすいもの。
>キリスト信仰も、信じた最初は、おぼつかなく頼りなく思えます。
>その細い糸に縒(よ)りをかけ、引き伸ばされるとしっかりしてきます。
>着物はすべて糸でできていますから、この細い糸の縒りの強さが大事な基本です。
 
最初はおぼつかなく、引き延ばされると、しっかりして、細い糸の縒りの強さ、・・と、まともな形容で、信仰を飾っていますが、飾り言葉に騙されないでください。これらの性質は、彼から、最も遠いものばかりです。
 
実際は、無視、不感不応、無頓着、無関心、無反応、無責任、無反省、無遠慮、無恥、という経過と結果でしかない彼の信仰に、どうして、上のような、まともな形容を付けられるというのでしょう。彼の、信仰についての病識の欠如が明らかになってきます。
 
>キリスト信仰も、伸びてゆく信仰はこの縒りの基本ができているのです。
>その条件は三つ。
>第一は「毎日、聖書に親しむこと」、
>第二は「毎日、祈って神さまを仰ぎイエスさまに親しむこと」、
 
今さらのように、キリスト信仰の条件を書いてくる、一つには、びくともしていませんよという自慢、もう一つは、自分の信仰が本物で、何故なら自分が言うからです、ということが、彼の目的であり本性です。彼が言わなくても、聖書と祈りが大切なのはキリスト者なら誰でも分かっているはずです。
 
それぞれのペースで読むのですから、毎日、という条件は余計なお世話なのです。私事を言えば、聖書を読むことは大切だが、毎日というステレオタイプをあてがわれるのは好みません。読んだ後に、全然わかっていなくても、とにかく自分は読んだ、という高慢を残しやすいからです。
 
>第三は「キリスト信仰の師友と親しむこと」です。
 
師友と親しむ?、彼と親しみ続けることが好きな人は、彼と同じ本性を育てるでしょう。キリスト信仰の師友に彼を含めてはいけません。彼は、そのように人間を人間離れさせてゆく、30年のプロなのです。
 
>この三本の細い糸が縒りあわされて、強く、しなやかで、つややかな信仰の糸になるのです。
 
強く、ではなく、硬直して、へばりつくような、しつこさです。だから、しなやか、ではなく、ごわごわと、よじれ曲がって、元の形に戻せなくなります。だから、つややかな、ではなく、人間味という色つやなど、微塵も含まれず、許されず、人間扱いもされません。人間性を馬鹿にしてモノのように扱い、神の奇跡にしがみつき、罪は悔い改めなくても自動的に赦される、という、自分信仰一途に凝り固められてゆくでしょう。
 
>新年、どの教会にも、この「神さまと自分」というタテ糸と、
>「自分と隣人」というヨコ糸で織られた、自分模様の紬を着たさまざまな信徒
 
神の前に罪を悔い改めなければ、人の前に改めることもない。彼は、その道を選びました。他者の意見のブロックと削除、そしてコメント欄閉鎖が、その証拠です。
 
不実によって、罪によって、偽善によって、隠蔽によって、裏に隠したことで、彼のほうが、神に織られることを拒んだために、「神さまと自分」というタテ糸もなく、「自分と隣人」というヨコ糸もなく、自分模様を紡ぎ織るしかなく、それは、セルフィッシュな恣意の模様、人間模様を一切描けない、自分で織り、自分で出来を讃美する、不潔な排せつ物に過ぎなくなるのです。
 
>どんなに見かけは素晴らしい織物でも、
>縦糸と横糸の伸縮率が異なるとどうでしょうか。
>きっと温度や湿気で皺くちゃになってしまい、役に立たなくなるでしょう。
 
図らずも、彼は、彼自身という織物について言ってしまう、という自業自得の言説です。偽善織りには、こういう結果しかないのです。
 
>イエスさまは12人の人を弟子とされました。
>兄弟もいますが、本当に個性的で、仕事や立場の異なる人たちでした。
>もっとよく考えて人選すればよかったのにと思われる人たちでした。
 
もっとよく考えて人選すれば、と誰が思い、誰に向かって言っているのでしょう。・・あなたが判断したことでも判断することでもないよ、と彼に言いたい。
 
>3年間イエスさまと一緒に生活しましたが、
>あまり仲の良いとは言えない弟子たちだったようです。
>目立ちたがりのペテロや気の短いヨハネや頭の良いユダ・・・
 
弟子たちの欠点を論う身の程知らずの彼ですが、すべてを見抜いてうえで愛したのが、イエス・キリストであります。黙れ、と彼に言いたい。
 
>弟子たちの期待はイエスさまがイスラエルの王様となられ、
>汚れた異邦人ローマの支配から救い、ダビデ王国を再建されることでした。
>イエスさまに仕え、イスラエルを支配できることが夢でした。
 
恐ろしいことです。彼は、身の程を弁えず、キリストの弟子、後の使徒を自分で評価し批判しています。まるで、自分なら、分かっているから、あんなへまはやらない、とでも言いたいのでしょうか。彼は、弟子たちが、師でありキリストであると信じたイエスを忘れられず、去り難く、覚えていて、復活の知らせに反応できた、そのような、愚直であっても、良心の感受性の豊かなところ、やはり選ばれる資質を、キリストは見抜いておられた、ということを考えないのでしょうか。
 
聖書の登場人物を、俯瞰するように、スーパーバイザーのように、見下ろして批評する彼の視線と、彼が立っているつもりの立場を考えてほしいです。相当な評論家気取りです。何様のつもりでしょう。彼は、ひょっとして、奇跡を起こした神の立場ではないだろうか。自分に対しての批判からは拒否して逃げ回るのに、キリストの弟子たち、すなわち、使徒を平気で批評しています。愚かな弟子のお前たち・・という見下ろし方・・?
 
>イエスさまがよみがえられた!お墓は空っぽ!
>イエスさまに会った!私がよみがえったことを
>ペテロたちに伝えなさいと言われたというのです。
>ヨハネとペテロは墓に駆け付け、カラの墓を見て、その中に入りました。
 
>弟子たちは信じられず、トマスはイエスの手と脇の傷を見なければ…と言い
>まだ鍵をかけた部屋に閉じこもっていました。
>すると、よみがえられたイエスは弟子たちのところに来られたのです。
 
>40の間、よみがえられたイエスさまと弟子たちの新たな交わりが始まったのです。
>イエスさまの夢と弟子たちの夢が神さまの夢と同じ夢と変えられたのです。
>縦糸と横糸が整えられ、教会という神さまの夢の織物が織られ始めたのです。
 
このように、彼は、復活という奇跡を、肉体の復活という超常奇跡に弟子たちが驚いて、彼が好んで使っていた、どんでん返しの、奇跡的逆転によってのみ、有無を言わさず、弟子たちは目覚めた、と言い張ります。言い張るというのは、今までの記事で、人間性、情感、理性、人間的納得、というものを、彼が、全く意に介さなかった、ということから言っています。彼は、今も、どんでん返しの奇跡で、自分は救われると言いたいのです。彼には、御国において、どんでん返し待機所が必要なようです。永遠に。
 
弟子を選ぶときから、キリストは、弟子にする者について、見抜いていたのだろう、と思います。弟子たちが、キリスト御自身とは別の勘違いの目的を持っていたことも、見抜いていたのだろうと思います。ここは、解釈なので、強い表現は出来ませんが、ユダについても、裏切りそうな者として注視していたのではないか、とさえ思います。聖書では、ユダが世俗の金にこだわっていたこと、キリストの捕らえられる直前のユダに言ったこと、などを思います。
 
>イエスさまという縦糸はいつも、いつまでも変わることはありません。
>私たちという横糸はよみがえられたイエスさまと出会い、
>交わることによって整えられるのです。
>織物の裏を見るとあまりよくわかりませんが、表はきれいな織物となっているのです。
 
当たり前のことですが、今、キリストのよみがえった肉体に出会うことは出来ません。いつ出会えるか、人は知りません。彼は、どういうつもりなのでしょう。会って口でも聞いたつもりでしょうか。神なるキリストなる聖霊が直接、彼に、話しかけたと言うつもりでしょうか。彼には、聖霊体験者という自覚があります。これは前に彼が言っていたことです。それで、人間的な問題など気にしなくても、自分という織物はきれいだ、と言いたいのでしょうか。彼の主張のすべてを、ことごとく結果としての罪業の事実が否定しています。偽善織りの宣伝でしょうか。
 
 
彼は、二千年前の、キリストの肉体を持った復活を声高に唱える者であります。キリストの現在の聖なる霊に背きながら、二千年前に、自らの正当性を依存しているのです。
 
私は、肉体の復活を信じ込むことは出来ないが、それが罪である可能性を認めたうえで、二千年前の肉体より、姿は見えないが、霊であれ、聖書の感想であれ、今の、人間に関わってくれるキリストを信じる者であります。
 
 
(2017年01月07日、同日一部修正)
 
阻む(はばむ)
論う(あげつらう)
俯瞰(ふかん)