覆い隠す危惧
 
 第二百四十九回
 2017/1/9(月) 午前 10:36
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27892192.html
 
 転載元:永遠のいのち
 2017/1/9(月) 午前 9:37
 記事タイトル:第二百四十九回
 
http://blogs.yahoo.co.jp/gonchanoosaka/14188141.html
 
 
転載記事が多くなりました。彼は、自分で弁明するのではなく、他者の記事の言葉の必然でない一致をもって、言い逃れしようという狙いが見え見えになってきます。それは、そのまま、偽信仰のために彼自身の言葉が壊れて、もはや弁明できなくなりました、と言っているようなものです。
 

罪の赦しは神によってのみ与えられ、どんな罪でも悔い改めるならば赦されると言われています。罪は赦されると無くなるというのではなく蔽われるという表現が聖書ではされています。

 
悔い改めるならば・・とあるように、決して、自分で罪さらに偽善を隠蔽することを是とするものではありません。言い換えや比喩で、分かりやすくなることもあれば、誤解されやすくなることもあり、その誤解のほうを取って、自己正当化を謀る不届き者もいるということです。また、言うまでもないが、罪を覆い隠すのは、赦すことであり、神がなさるのであって、人が隠すことを正当化するものではありません。
 
何をやっても、ノーコンデムネーション、責められることはないのだと言い張って、根拠を示した批判をことごとく封殺して、見かけの偽装を続けながら、神を讃美する、という破壊的事態に陥っている者がいます。
 
>罪を告白しその赦しを与えられるということは、人に罪を告白するのとは違います。
 
これをもって、人に罪を告白する必要はないと、隠蔽を正当化する者が実際いるわけです。彼は、我が意を得たりと大喜びしているでしょう。神の前に、正直な祈りをもって、罪を告白した者が、人の前だからと言って、平気で、罪を犯し続け、偽善を施し続けていられるでしょうか。
 

罪は神の恵みによって覆われ、キリストの義によって覆われることによって、消えてゆくものであります。だから、パウロはキリストの義を着るという言い方で言っているのですね。ああいう言い方の中に、実に深いものがあるわけで、キリストの義を着るという、あるいはキリストを着るという言い方すら出てくるのです。われわれ自身は何でもないんです。われわれ自身は変わらないわけですよ、本来。ところが、キリストを着ることが出来る、キリストの義を着ることが出来る。そういう時に、始めてわたくし共の根本が、自己から解放されると

 
神の恵み、キリストの義、キリスト(の義)を着る、と言葉を変えるだけで、書いた人は、実に深い、と言っていますが、本当にそうでしょうか。このように、言い換えで分かったような気になっている人は、少なくないかもしれません。その理解は、自分の中でのみ完結しています。さて、罪を赦される前と後で、私たちは、変わらないのでしょうか。人間の罪性は変わらない、けれど少なくとも、罪を赦されたという記憶、自分は罪を赦された者という記憶は残るはずです。それが、さらなる罪を犯すことの抑止となるのです。罪は悔い改めなくても赦されると決めつけて、まるで予め許可されているかのように罪と偽善を重ねる者など、論外なのです。その者にとって、信仰は、最初から、免罪のための企みに過ぎないからです。
 
非を認めない者の非を、他者も黙認するということになってしまうと、地上の信仰は、悪に対して犯罪天国を約束することになるでしょう。それに文句を言うな、と彼は言っているようなものです。
 

自分に死ぬということがおこるのですね。ですから、恵みに依って、始めて、罪が消えるし、自己からの解放がおこる。聖書が言っていることは、人間の側から言えば、ただ自己から解放されること、旧き自己から解放されることであります。そして、その自己というのが、罪の塊りなんです。自分、自分、自分ということが罪なので、その自己からの解放はどうしておこるかというと、自分の罪に拘泥することによってではなく、キリストの義に固着することによってであります。

 
罪は悔い改めなくても救われると言い張り、また、そのように、罪と偽善を継続しながら、一方で、神を讃美する不埒者もいるのです。その者にとって、キリストの義に固着する、というのは、涙が出そうなほど、ありがたい言葉でしょう。自分の勝手な信仰解釈を固着して、修正不能になり、学習不能になり、独善教理を、言い広めて、キリスト信仰をけがすことが、彼にとって信仰なのですから。
 

聖書の場合、キリストにあって、神はもはやわれわれの罪を見給わない、ということなんですね。キリストというプリズムを通してだけわれわれを見給う、ということ、このことが聖書に言っている救い、ということなのです。

 
まるで、神が色眼鏡でもかけているような形容です。赦す、ということの大切さが、魂の奇跡が、言い換えによって、薄くなり、失われてゆく危惧を覚えます。罪は人にあり、罪は悔い改めて罰することから免れている、という元の言葉のほうが、よっぽど分かりやすいと思います。自分で言葉を工夫してゆくと、原義の本質が薄くなる、色が変わったようにさえ見える、それを見て、隠蔽正当化と曲解する者が出てきて自己正当化のために転載する、ということを学ぶべきです。
 
しかし、元の言葉だけだと聖書語として平坦に、つまり何の感動もなく、固着してしまうので、人が福音を宣べ伝えるということは、ひるがえって、罪を明らかにするために、罪を重ねることかもしれません。ただ、その罪については、祈りにおいて告白し、態度を改めることで、赦しと救いの道を、信仰者は既に知っている、という違いだけなのです。
 

「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」(ロマ四・7,8)にあり、キリストを着るというのは、例えば、「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の慾を満たすことに心を向けてはならない。」(ロマ一三・14、口語訳)にあります。

 
罪があると見なされない、は、罰を受けることを逃れている、すなわち、罪を赦されている、ということの言い換えです。パウロも、言葉については工夫をしているということでしょう。少なくとも、悔い改めなくても赦されるのだ、と繰り返すような狂信に至らないために。
 
キリストを着なさいと教え、そのあとで、肉の欲を満たすことに心を向けてはならない、と戒めている。これこそが、まさに、キリストを着たから、どんな罪も悔い改める必要もなく許されているなどと自己正当化に走ることが起こらないように、戒めているのでしょう。
 

われわれ自身は変わらないわけですよ、本来。ところが、キリストを着ることが出来る、キリストの義を着ることが出来る。そういう時に、始めてわたくし共の根本が、自己から解放されると申しますか、自分に死ぬということがおこるのですね

 
キリストを着る、自分に死ぬ、・・前述のように、これらの言葉は、語る者が、言い換えることで、なんとなく説明できたかのような気分になっているだけのことが多いと思います。しかし、説明のためには、別の聖句や、比喩・誇張・逆説表現を用いることは、やはり、あるのです。それは、場合によっては、罪かもしれないのです。人の言葉とは、そういうものだと思います。
 

罪というのも、人間の心・精神活動の基本的な部分に根ざしているのではないでしょうか。人間らしさ、人間特有の心が、ほんの少しのことで、罪になってしまうことがあるのかもしれません。心は物質ではありませんが、罪に汚染された部分を切除しようとすると、義しい心の部分を傷つけたり取り去ってしまうということもあるのかもしれませんね。だから、覆い隠してくださるという療法、恵みが最良の方法なのでしょうか。

 
この表現については、前にも述べたように、実際、罪は、赦された、蔽われた、罰することはなくなった、自分に死んだ、自己解放された、と言い張って、偽善の罪を認めない者が、その合理化のために利用する、ということが起こっています。
 
信仰は、人間臭い罪から、人間らしさを取り戻すためにあります。罪を犯しても全く気に留めず、平気でいるような人間離れをもたらす信仰?など、信仰と言えないことは、全く当然のことであります。
 
 
もう一度言います。人が福音を宣べ伝えるということは、ひるがえって、罪を明らかにするために、伝道者にとっては、罪を重ねることかもしれません。ただ、その罪については、祈りにおいて告白し、態度を改めることで、赦しと救いの道を、信仰者は既に知っている、ということであり、それ以下でも、それ以上でもありません。
 
 
(2017年01月10日)
 
覆う・蔽う(おおう)
隠蔽(いんぺい)
不埒(ふらち)