零的説明?
 
 罪の報酬と神の賜物
 2017/1/9(月) 午後 0:50
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27892370.html
 
 
また、霊的事実?を持ち出して、啓示の名のもとに、問答無用の説教をしようとする。何の資格があって・・。言論の双方向の場において、言い返せなかったということは、尻尾を巻いて逃げたということに等しいのに、批判を無きものにして、無かったかのように見せかけて、同じことを繰り返し言い張っている。これは、泣き止まない赤ん坊や、壊れたプレーヤーが無限ループしているのと同じということだ。話すことといったら、結局、必然的に、詭弁しかなくなるのである。
 
>主イエスを信じて、新しいいのちに生きる人とされているのに、
>その新しいいのちに生きることを妨げるのは、古き人であり、
>アダムのいのちでした。
>その古き人を支配し、影響与え、縛り、奴隷とする、
>その正体は、うちに宿っている罪でした。
>その罪の問題の解決はどこにあるのでしょうか。
>これこそ、キリスト教の神髄とも言えるテーマです。
 
アダムが善悪を知る実を食べたのは、食べる前から、神の御心に、すでにあったことでしょうか。それとも、純粋にアダムの罪でしょうか。アダムは、神からの祝福を全く受けることの出来ない反信仰者だったのでしょうか。アダムは、古い人として、神に背く者という不実の者、というだけでしょうか。では、なぜ、その末裔として、イエス・キリストが生まれたと聖書は記述しているのでしょう。
 
彼、シャローム氏の説教は、神関係の言葉を次から次に使いますが、その実、一度も、啓示らしく新しいことを、私は、受け取ったことがありません。受け取ったのは、同じことを繰り返して言い得たつもりの老醜と、礎を持たない偽信仰だけです。彼の説教は、難解な神関係の言葉で、読者を煙に巻き、聞いた人に、何やら、いいことをおっしゃられたんだろう(?)と思わせたい、という彼らしい、偽りの言説として、かえって、大事なものを、まさに彼らしく、蔽ってしまう効果を持っています。
 

ローマ6:10-11
なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。(口語訳)

 
 (ローマ人の手紙、口語訳)
6:6
わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7
それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 6:8もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
6:9
キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
6:10
なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
6:11
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
6:12
だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、
6:13
また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。
6:14
なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
 (ローマ6:9―14、新約聖書)
 
>ここに「罪に対して死んだ」という言葉が2回も出てきます。
>誰が死んだのですか。
>罪が死んだのですか。
>罪が死んだのではありません。
>キリストを信じたあなたやわたしが死んだのです。
>一つは、キリストご自身が十字架で死んだのは、この罪に対してでした。
>もう一つは、キリストを信じているあなたやわたしも、この罪に対して死んだのです。
>聖書はそう言っています。
>何度も言いますが、罪が死んだのではありません。
>その罪に縛られ、自由を失っていた人が死んだのです。
>死んだ人間は、殴られても、けられても、何の反応もしません。
 
死んだという言葉を、ふつうの人の死のように扱っています。これが、何らかの喩えであるなら、それが分かるように話さなければなりませんが、彼には、罪に死ぬ、ということを、理解する気もないのでしょう。だから、自分も死んだ、殴られても蹴られても、何の反応もしない、と平気で言ってくる。まことに、ぼろ布を、錆びた針で、しばしば自分を刺しながら、縫い付けようとして、無駄な血を流しているのが、今の彼です。
 
さて、罪に死ぬ、ということは、殴られても蹴られても、何の反応もしないことでしょうか。彼は、毎日のように、コメントをコメント欄ごと削除しています。何の反応もしてないでしょうか。今日はまた、詭弁を弄しています。何の反応もしていないでしょうか。少なくとも、彼は、当てはまらない・・。
 
彼は、毎度毎度、迷惑な詭弁をもって、少なくとも反応しているのです。するべき反応をしないのは、出来ないからです。彼は、体質と独善によって捻じ曲げられた偽信仰によって、人間なら、おかしいと分かることが、分からなくなっているのです。
 
悔い改めによって、赦されることを、罪に死んだというわけだから、私たちは、罪に死んだと言っても、肉体も魂も生きているのです。したがって、罪に死んだ、というのは、私たちは、悔い改めによって赦される信仰の道を知っているから、罪のことで、いつまでも病んでしまうようなことにはならない、ということをインパクトをもって喩えているとしか思えません。彼の言うように、無反応の屍のようになるのが、信仰なら、誰も、神を信じたりはしないのです。
 
まず、彼が、今、死んでいるとするなら、彼の人間性において、人間の直感的理解において、また、慎重な思慮深さにおいてです。そうして死んだ信仰は、罪に対して、死んだのではなく、罪に対して無力になってしまったのです。信仰が死んでいるからです。だから、詭弁を組み立てて、これで成った、という錯覚に容易に堕ちてしまうのです。
 
>このみ言葉を信じ、このみ言葉の啓示が自分のものとなった人は、ハレルヤです。
>これは単純に信じ受け取った人だけが分かる霊的な世界です。
>しかし、分かっただけでは終わりません。変化が起こってきます。
>新しいいのちに生きるという変化です。
>復活のいのちです。
 
慎みもなく啓示だとゴタクを並べてくるのは、人間としての立場を捨てたくて捨てたくてならないのでしょうか。ハレルヤまで付けて。こういう恥ずかしさを分からないのが、分からないと言えない人々、一部の熱心に信仰を守っているつもりの、熱心に信仰を壊してゆく者たちなのです。それゆえ、3行目から5行目までは、言葉だけ並べて、説得力や説明力の欠片もない、言い張っているだけの繰り言です。苦言を平気で消すだけの強硬な態度を持っているので、主のあわれみを受けても気づかないでしょう。
 
>「罪が支払う報酬は死です。
>しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
 (新約・ローマ人への手紙6章23節)
> 
>短い簡潔な言葉です。
>しかし、この言葉は聖書(旧約・新約)全体を要約していると言えます。
 
神の賜物、キリストによる永遠の命、まさに、これを出して、全体の要約だと、分かったふうに言ってしまう心が、すでに、天上に舞い上がるかのような傲慢の姿勢なのです。神、永遠、について、人は、分かったとは言えないはずです。それを説明できたかのように語るのは、自分信仰者の特徴です。読者は気をつけたほうがいいと思います。
 
ここからの引用6段落は、読みのがおっくうになるくらい、彼の教理話べったりの病巣に、何の実質も持たずに、こびりついている垢が、落屑として散乱してくるだけです。彼の信仰の実生活における偽善と偽装と隠蔽を思えば、到底、説教とは思えず、誰の心にも、表面的な理屈と詭弁で、妙な迷いを起こさせることのないように祈ります。
 
>この言葉の罪とは何かを理解なしに、死を理解することはできません。
>だれもが死にゆくものですが、罪が分からず、死をも理解できないまま
>生きている存在ではないでしょうか。
 
これを彼が語る、ということそのものが、自分は分かっている、という慢心であるということを、何度も言ってきたのですが、こびりついて取れないのでしょう。
 
>神によって神のいのちの息を吹き込まれ、生きたものとされながら、
>生ける神を見失い、あるべき姿と生き方を見失って、死を負って生きている存在
>それが、人の的外れの姿であることを罪と一字であらわされています。
 
その的外れが、毎日のように、人の意見を、反対はゴミ箱に、賛成には世辞を、と分別して自らの安寧を偽装しているのです。
 
>それではこの世に生を受けて生きている人にとって死のみが確かなことです。
>罪の結果としての死はただ単なる肉体的な死にとどまることではなく、
>神との関係を失った霊的な死であり、
>またその結果自己の死と他者との関係の死なのです。
 
死はそんなに分かりやすくはありません。誰も経験したことがないからです。それを持ってくること自体、自分には表現力がないと言っているようなものです。言葉だけをいじって並べても、人間として感じることも考えることも、彼の訂正不能の信仰?によって捨ててきて、信仰の文章を書こうと思っても、必要な感性も思慮もなくなって、整えることも書くことも出来なくなっていると思います。訂正不能によって、信仰者として、学習して来なかった結果だと思います。
 
>罪を負い、罪の奴隷として生きる時、人は自分がだれであり、
>どこからどこに向かって生きているものであるかを見失い、
>この世という地上のさすらい人としてさ迷い歩いているのです。カインの末裔です。
 
自分が何者であり、どこからどこへ向かっているか、を求めるのが信仰であり、それは終生続くのですが、彼は、当たり前に持っているかのように語り、非信仰者は見失っていると決めつけています。そして、カインの末裔だと決めつけています。何様のつもりだ、というのが当てはまります。この彼、シャローム氏とは、恐らく、誰も話が通じないと思います。通じていると思っている人がいるなら、それは、社交の世辞です。
 
>飢え渇く霊的渇きをいやすために、
>神ならぬものを神とし、自らを神のような存在とし、
>心は自己実現の幻を追い求め、
>愛の渇望を抱いて他者を自己の欲望の対象とし、支配し、
>ただ肉体の本能を満足させることを求めて、
>際限のない欲望に支配されて生きるのです。
 
これこそ、彼、シャローム氏の、今の姿です。自己満足の沼しか知らない人が、他者をぼろくそに言うときの言い方、といっても排せつ物ですから、今、人間として信仰者として道を求めている人は、気にしないでください。彼は本当に何様のつもりだ・・。
 
>すべての人が罪によって背負っている死の現実、
>これらのことを罪の支払う報酬である死だというのです。
 
死の現実、・・実感がないので、ふつう人には語れないから、使えない言葉です。彼は、言葉だけで、つなげて語った気になっています。死の現実の具体性がなく、心に響くものを何も感じられない。彼は、追いつめられても魂が砕かれることもなく、ただ狼狽して節操もなく、吠えているだけだろうと思います。
 
>しかし、聖書は罪の宣告で終わらず、
>「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
>と宣言しているのです。
 
そして、ここで、救いを豪語するのです。私は、人間から離れて、神の立場に成り上がって、ボロボロの自分を自覚しないまま、教えようとする彼の、浅ましさを感じるだけです。何の説明にも、解説にもなっていません。これを、素敵な説教です、とか、言われて慢心して生きてきたのでしょうか。
 
この話を誉める人は、彼に習って、社交の世辞を言っているだけ、と気づかないのでしょうか。このように聖書語をべったり並べて張り付けてくる文章は、読むほどに、人の意見を読む意欲をそぐものです。彼は、そういうことも分からなくなったのでしょうか。
 

 死は私たちが犯した罪の支払う「報酬」ですが、
 私たちを罪による死から永遠の命に生きる者とされるのは「神の賜物」だというのです。
 生まれながらの古い人は罪の奴隷として死の報酬を負い、
 神によるイエスの十字架の血による罪の贖いによって、罪の赦しを与えられ、
 神の賜物である神のいのちに生かされる救いは神の恵みによって生かされることです。

 
使われている単語を見てください。どれもこれも、今まで、使ってきた、また、この記事でも使った単語を、説明もせずに、解説も出来ずに、記事の上から下まで並べているだけなのです。何度並べてきたのでしょう。生きた人間の言葉ではありません。私が、皮肉を込めて、聖書語とか教理話、とか言うのは、こういう類なのです。
 
そして、いかに自分が聖書に通じて理解しているかを誇示したいのか、聖句を載せて、読者を見下ろす立場と姿勢から、追いつめられた使徒か預言者気取りで、その名は不思議と昔は牧師でもあった彼、シャローム氏は、かえって、その名をみだりに叫び、わめきちらしているだけです。
 
以上のような、説明にも説教にもならない、教理の言葉確認作業は、彼には自分独りでやっていて欲しいと思います。人間としての在り方を信仰に求めている者にとっては、甚だ迷惑です。
 
 
キリスト者は、彼のような、分かっている信仰?など求めてはいない。私たちは、キリスト信仰者は、聖書を読み、キリストの同伴を祈り願いながら、人間らしく、信仰の道を生涯にわたって求める者である。
 
 
(2017年01月11日、同日一部修正)