独善の凶器
 
 ノー コンデムネイション
 2013/2/2(土) 午後 8:58
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/24007442.html
 
 
今日は、彼が新規投稿した記事ではなく、私が、彼のブログにコメントを書き込むために、コメント欄のある記事を探していたときに見つけた記事についてです。外面を、良さそうに見せている彼ですが、心の中は、以下のような聖句と教えの偏狭な解釈による独善の信条に染まっているのです。
 
> 従って、今や、
>キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
> (ローマ 8:1)
 
これで、何をしても、ノーコンデムネーションだと言っています。罪を犯しても責められることがない・・のだそうです。こういうことを教えている教会が現実にあるということなのでしょう。道理で、彼は、平気で、コメントとコメント欄削除を続けることが出来るわけです。彼は、それを信仰だと思っているのです。かれは、人を傷つけながら、神をけがしながら、神の御心を行っているつもりなのです。私が、以前は、直感的に感じた、胡散臭さの元凶が、ここにあったのです。常識など全然通用しない恐ろしい世界です。
 
罪に定められることがない、というのは、告白によって、罪を悔い改め、罪の赦しと、癒しと救いと導きを、神に祈り願うのが、キリスト信仰だからです。しかし、彼の信仰?は、正反対の解釈です。彼は、どうやら、キリストの同伴ではなく、ほしいままやって悔いない信条を同伴として生きているようです。
 
※ 
コンデムネーションcondemnation :
非難(すること)、有罪の判決、罪の宣告、宣告の根拠
condemn :
強く非難する、とがめる、だめだと決めつける、非難する、責める、有罪の判決をする、判決を下す、宣告する、有罪と思わせる、(…に)運命づける
 (
http://ejje.weblio.jp/content/condemn より。)
 
さぞかし、好きなように悪さを働きたい者が、信じると言って、入って、染まって、あまりの都合の良さに嬉々として出てゆくでしょう。こういうことを考えれば、直感的に、とんでもない解釈だと気づくのですが、考えないところが驚きです。彼は、まさに、このように実行し、また信徒に教えてきたのです。
 
>自分を責める思いはほっておくと、人にも向けられ、
>人を責め、裁く思いへと向けられていきます。
>自分の思い、考え、力ではどうしようもない思いですが、
>そこから解放される道があります。
 
カルトは怖い、ということが、そのまま当てはまります。自分を責める思い、これは、罪悪感または罪責感ですが、これを、傷を深くし裁くことにつながるからよくないと、まるで、害悪のように見なしています。
 
自分を責める思いを放っておくと、人を責め、人を裁く思いへ向くと言ってます。おかしいです。自分を責める思いが長く続くと、葛藤を抱えることになって、自分の心の病のほうに向かうことはあるでしょう。その症状によって、周りが心配することもあるでしょう。
 
しかし、自分を責めなくなることのほうが、はるかに、危険なのです。無条件に自分を責めなくなる人は、好ましくないことが起こると、人のせいにするのです。特に、宗教的確信によって、自分を責めなくなると、自分に反対する者に対して、それこそ、神の敵、信仰の敵として、異教の取るに足らない者、ゴミ屑同然のように、蔑みます。どう侮辱しても、何も罪悪感を持たず、代わりに、使命を果たしているという確信に満ちて、訂正不能の無反省な人になってゆきます。すごい詭弁です。
 
彼の言説だと、確かに自分を責めないのだから、楽にはなるでしょう。しかし、代わりに、人を責めることになり、これでは、信仰?の集まりは、誰が何と言おうと不感不応の凶暴な偽善者大量生産工場になってしまいます。彼の、依存や虐待についての、付け焼刃でしかない、安易で短絡的な精神病理学?も、心身症ならぬ「霊心症」や、民主主義ならぬ「神主主義」などという、名前を新しくすればよいというような幼稚な彼の造語も、そういうカルトだから生まれたのだろうと推測します。自分を責めないことを身につけてしまった人は、自分の過ちや落ち度や罪に気づくための感性も捨ててしまうことになるでしょう。
 
自分を責めることは、人間が生きてゆくうえでは、避けられないことだし、人間の修正機能として、むしろ必要なことです。そのための気づきの感性も、気づくための思考も、併せて大事なのです。信仰者においては、罪責感が長引かないために、反省し、告白の祈りと、赦しを求める祈りが、重要になります。信仰は、そのために、悔い改めによる罪の赦しの道を説きます。そして、罪責感を乗り越えて、日々新しく成長してゆく生き方を進めます。
 
罪責感もなく悔い改めもしないのは、むしろ、徹底した自己中心の人格と育てることになります。・・・ずっと、それを見ている思いです。
 
>自分の思い、考え、力ではどうしようもない思いですが、
>そこから解放される道があります。
 
どうか、キリスト信仰を勘違いしないでください。この点について、キリスト者の救いの道は、罪を犯しても、悔い改めることによって、自分を過剰に責め続けることからの救いであり、自分をいつまでも責め続ける、という病からの癒やしなのです。
 
正常な罪悪感は、罪を自覚し、祈りへと導く救いの道です。罪悪感を感じなくなることは、むしろ、キリストによる救いから、果てしなく遠ざかる方向です。彼はキリスト信仰を全く理解していません。逆に、長い間、ずっと反信仰を教えている、と言ってよいと思います。反社会思想につながる信条だと思います。
 
>罪に定められることはないとは、責められ、裁かれることがないという意味です。
>英語ではノー コンデムネイションです。
>キリストに結ばれている人は、もうその問題から解放されたのです。
>こんなに簡単に言いきっていいのでしょうか。
>これが福音です。
>信じて受け取りますか。
>クリスチャンと言われる人であっても、
>そう簡単に信じて、受け入れない人もいるでしょう。
>しかし、これは重要な信仰的事実です。
>受け取っておられますか。
 
彼の言説は、引用も含めて、もはや、これが福音です、信仰的事実です、と決めつけるだけで、福音伝道どころか、カルトの伝染活動になっています。無思考と無罪信仰の勧めをしています。今まで誰も忠告も批判もしなかったのでしょうか。他者をいくらでも舐めてかかっていい、という信仰なのですが。・・ここまで決めつけているとは思わなかった。罪と偽善と犯罪の精神的温床になるでしょう。彼の信仰は凶器です。
 
>それはだれでも神の愛を見失うと互いに愛し、
>受け容れることが出来ないことに気づかされるからです。
>そして自分を愛し、受け容れることのできなかった人も
>神の愛を見失っているからだと知らされ、
>さらに神は十字架につけられたイエスによって
>無条件に愛し、受け容れておられることを知らされて、
>自分を傷つけた人も自分自身をも
>赦しあるがままで受け容れられるようになるからです。
 
恐ろしいことを彼は言っています。これでは、神の愛を回復するためにと、逆に、罪悪の勧めをすることになってしまいます。信仰の名のもとに、ほしいままで、誰が何と言っても、どんな罪を犯しても、自分を責める必要はなく、いつも堂々として、罪悪感など感じなくていい、という人生が、至高の善の神への信仰になるわけはないです。
 
とても大事なこととして、あるがままで、というのは、罪を犯し偽善を施して、悔いもせず、改めもしないまま、という意味では決してありません。罪を犯したら、罪とともに、あるがままの情けない罪人の自分を、神に告白して、信仰の態度を改めるという救いの道がある、ということです。
 
>しかし、イエスを信じて生きていても、
>人の言葉や行為によって過去の傷が疼き、よみがえり、
>人への怒り、不信や自己嫌悪に混乱させられる
>という信仰の霊的戦いもありますが、
>神の言葉を聴きつづけ、祈り、聖霊の導きと助けによって
>次第に心の傷の痛みも思いも癒されていき、
>神との交わりが深められことにより、
>神の愛に生かされる者と変えられていくのです。
 
信仰によって、過去の傷からは解放されるでしょう。そのままの自分を神の前に投げ出すのが信仰です。そこに癒しがあるのです。
 
しかし、間違っても、彼、シャローム氏が、熱心に実行しているような、他者の反対意見を封殺して、見かけを偽装し、その痕跡を、次から次に隠蔽して、なお、身勝手な自説に固執して、悔い改めることなく、信仰のお手本の自覚で、さらに罪と偽善と隠蔽を継続しながら、自分の好きなように振る舞い、神を讃美して伝道してよい、などということには決してなりません。
 
彼の今までの言動は、このカルト的自己中心信仰の記事の理屈の特徴で、すべて説明がつきそうです。彼は、まさに、自己中心が認められることに気をよくして、彼は、信仰?の道に入ってきたのでしょう。このことによって、人をけがし、キリスト信仰をけがし、神をけがしていると、はっきり言ってよいと思います。
 
 
(2017年01月12日、同日一部修正)