混乱と滅裂
 
 イエスの死と古き人の死
 2017/1/11(水) 午後 11:29
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27896740.html
 
 
本人は・・彼は・・前よりも実のあることを言っているつもりでしょうか。だとしたら、前の文章に不備があることを認めたのでしょうか。実際は、同じような駄弁と詭弁の繰り返しです。収拾がつかなくなっているようです。言い逃れの断末魔の暴走です。
 
>聖書の言っていることは、それはそれで本当でしょうし、疑いませんが、
>その霊的な真理と自分の具体的な問題とはつながっていないのです。
 
本当でしょうし、と書くなら、これは、その人にとって真実にはなっていません。前に書いたように、言葉だけ、真理なんだろう・・、と拒まなかっただけです。
 
霊的な真理と自分の具体的な問題とはつながっていない、これは私も同感ですが、これも、人の言葉の限界だろうと思います。言葉だけからの実感は、永続しないのが人の世界です。だから、おかしな解釈をして平気でいるようなカルトが出てくるのでしょう。
 
>わたしの中の、自分でどうしようもない、この古い人は
>十字架で死んでいるという霊的事実です。
 
この霊的事実が、その人に分かったとして、伝えるのに、同じような言葉を使っているのだから、解説しようがないと言っているのと同じです。これは、ある程度、不可避のことで、キリスト教一般に言えることだと思います。
 
>その度に十字架に死んでいることを認めるようにしてきました。
 
>罪は人を縛り、奴隷としますが、真理は人を自由にします。
 
十字架に死んでいる、と認めたら、自由になったと書いていますが、結局、真理は人を自由にします、という書き方では、何も伝わらないでしょう。罪に死んだ、という意識が、訂正不能の、自分絶対化につながっている人の言い訳になっている、という事実によって戒められます。気軽に書いてよいことではないと。
 
>その後も、わたしなりの別の問題が起こってくると、
>その度に十字架に死んでいることを認めるようにしてきました。
 
実際に、行き詰まったとき、追い詰められたときに、警句的表現によって、ピンとくることはあります。しかし、
 
>罪は人を縛り、奴隷としますが、真理は人を自由にします。
 
こう言ってしまうと、霊的事実は、平板な言葉になってしまうのです。平板な言葉を神秘を見つけたかのように振り回すのは、自己顕示欲の強い者が、分からないとか、難しいとか、言えない人が、しばしばすることです。
 
そして、以下、彼の発言ですが、
 
>罪を犯すなら、だれもがその報酬から逃れることはできません。
>生ける神は全知全能であり、汚れなき聖、愛、義なる方です。
>私たちはそのような神によって命の息吹を吹き込まれ、生きたものとされています。
 
生ける神は全知全能であり、けがれを隠し、けがれなき者のように偽る者を、決して見逃しはしません。その者が、いくら、命の息吹を吹き込まれた、と言っても空しいばかりです。
 
>私たちは生ける神に対する全き信頼、信仰によって生きる礼拝者として
>善悪の基準を神のみ心とご支配にゆだねて生きる存在なのです。
>生ける神は常に全知全能、全き聖、愛、義なる方としてすべてを支配しておられます。
 
彼は、生ける神に対する全き信頼など、持っていません。彼は、恥をかきそうになると、都合の悪いものを隠し削除し、けがれがないように偽装して、その痕跡を隠蔽しました。そのような者が、生ける神に対する全き信頼を寄せていると、どうして思えるでしょう。そして、白々しくも、神を、全き聖、愛、義なるお方と、讃える嘘をどうして見過ごせるでしょう。今日も昨日も、彼は、見えないところで、不法をなしているのです。
 
彼は、善悪の基準を神の御心とご支配に委ねて生きる存在、と自分のことを言っていますが、その生き方に、自己の見かけを装う、偽装や、他者を省みない罪と偽善が、あるというのでしょうか。御心だから、そうしたと言うのでしょうか。神を盾にして、自分を無罪にしようという、自分の責任を、神に転嫁しようという、最も悪質な言い逃れです。
 
>それ故に、私たちはただ神への信仰、信頼のほか自らのうちに善悪を判断し、
>自らの生き方を選び取る必要はありません。
 
信仰を持っているから、善悪を判断したり生き方を選んだりする必要はない、と言っています。彼は、そうして、善悪の見境なく、罪に偽善を、偽善に偽装を、偽装によって、さらなる罪を、重ねる生き方を選んでいるのです。彼は、これを、信仰によって与えられたと、暴言を吐いているわけです。
 
>しかし、神の愛のゆえに、私たちの信仰を支配されず、
>自由な意志による信仰を喜ばれるのです。
 
自由な意志は、何をするでしょう。神の下にあって、自由な意思は、善悪を判断する分別を持ち、自分の生き方を選び、ゆえに、信仰者が誕生し、生きてゆくのです。そして、不全なる身ゆえに、正直に告白し、悔い改め、癒しと救いと導きを祈り願うのです。信仰者の当り前の分別も持たない人が、次から次に自己矛盾を露呈しています。また、彼は、善悪を判断せずに反対意見を削除した、とでも言うのでしょうか。
 
>私たちが自由な意志による信仰によって神を喜び生きるか、
>自分の自由な意志によって、善悪の基準を判断を自分自身のうちに持ち、
>神から独立して生きることができる自由を与えられたのです。
 
神が手とり足とり教えてくれるわけではないのだから、信仰者でも必ず善悪を判断します。善悪の判断をしなくてよい、などと言うことは、終末までないのです。それにしても、初歩的な道徳的な善悪の区別もつかない者が、神から独立して生きることが出来る自由、などと言っているが、彼は、いよいよ自分から信仰者の立場を勝手に逸脱して、自分の境地を天国?にしたいようです。
 
>「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、
>賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、
>また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」(創世記36節)
 
>ここに書かれていることは、今もテレビ、ネット、新聞にいっぱいです。
 
次に、また、彼の、ぼろくそ節です。創世記の失楽園の話を持ってきて、自分を圏外に置いて、社会批判か、テレビ、ネット、新聞を、悪の誘惑と断じています。
 
>つい油断して、甘い香りで誘われ、つい食べてしまうと
>私たちの心と生活が吐き出し捨てられない苦さでとらえられてしまいます。
>罪の支払う報酬による死の苦みです。
 
先ほどから、自分が信仰によって完璧であるようなことを言っていたのに、つい油断して、・・・捉えられてしまうのですか。ではなぜ、自己正当化をするのでしょう。やはり、いつものように、これを、自分以外のこととして言っているのでしょうか。
 
>私たちは罪の報酬である死から逃れることができません。
>罪の奴隷というのは空虚な言葉ではなく、現実です。
>私たちの罪の重荷、負債は死の代価によって支払わなければ負債です。
 
死は、もはや負債も貯金もないでしょう。あとは、書いて何になるのか、特に3行目は、意味不明・・。
 
>しかし、死は滅びを刈り取ることです。
>生ける神は私たちが負い、私たちが支払うべき死の負債を支払うことによって、
>私たちの罪を贖い、罪の赦しを信仰によってうくべき賜物として与えてくださいました。
 
ひどいと思うのは、彼は、このあたりの文脈を、罪、滅び、負債、賜物、といった、彼の言うところの、霊的事実を書いているつもりのようですが、読んでみると、全く、人間として共感できない、ピント外れの、ピンと来ない、表面教理の零的?言語になっている、ということです。人間離れが進むと、こういうことを繰り返すようになるという典型を、ここでは、フル回転させてループしている彼の悲惨さを受け取るだけです。
 
>あるひとりの人を知っています。多重債務で追われ、苦しみ、逃げ回っていました。
>いつも両親が支払い、退職金、結婚の準備金、老後の貯えも使い果たしてしまわれました。
 
>私たちにいのちを与え、愛しておられる神はその聖、愛、義なる方であるがゆえに、
>ご自分の独り子であられる御子イエスの命、血によって私たちの負債である死、
>罪の代価を支払ってくださり、ただ信仰によってうけることのできる賜物とされたのです。
 
>ご両親の愛によって罪の代価である多重負債から自由にされながら、
>その人はついまた同じことを繰り返してしまう、自分の弱さに気づいていました。
 
何を言いたいのでしょう。一つの例をもって、一般を結論してはいけないのですが、どうも・・実例を挙げているようで、神の賜物、それが成就した話なのかと思えば、同じことを繰り返してしまう弱さ、主張が見えません。
 
>私たちも神の限りない愛によって赦され、愛されていても、
>弱さのゆえに罪を犯してしまいます。
>イエスさまが私の罪のために死の代価を支払ってくださったのは
>神の不退転の愛であり、赦しです。 
 
神の不退転の愛と赦しが、自分に注がれていると豪語しています。なぜ、豪語と書いたかというと、キリストの贖いによって信仰を与えられたものが、偽善を平気で行い、そのことを悔いもせず、改めもせず、偽善を続けることは、あり得ないからです。こんなことを書くから、また、偽善が増し加わるのでしょう。神の愛は不退転でも、彼は退転して反対方向に遠ざかっているのです。
 
>その信仰の歩みにおいて、イエスさまの死とともに、私という自分自身も
>イエスさまとともに一緒に十字架に釘づけられ、死んでいるという霊的な事実によって、
>滅ぶべき死の身体を生かすために生きておられる聖霊に導かれて生きることが信仰の歩みです。
 
不適切な比喩も文脈も霊的事実と言えば通じると思う安易さを感じます。また死んでいる、を繰り返してきました。にもかかわらず、滅ぶべき死の身体を生かすために、と続いて、聖霊に導かれて生きる、と言っています。逆説的表現のつもりが、混乱表現になっています。
 
つまり、前の彼の記事では、自分は死んだから無反応だ、と言ったから、削除と詭弁の継続で反応していることを指摘しましたが、今度は、聖霊に導かれて生きる、という居直り的な宣言になっています。無反応の言い訳に、聖霊を持ってくるという、奇妙な流れで、今の彼の生活が、聖霊によるのだと、自分の罪を否定できると思っているようです。
 
矛盾だらけで、どこにも整合性がないし、滅裂になってきているのだろうと思います。少なくとも混乱して、説教にも弁明にもなっていない。毎回、こういう記事を、見せる価値があると彼は思って公に出してくるのですから、真摯に信仰を求めている人にとっては、甚だ迷惑であり、無駄であり、やかましい騒音のようです。まことに、おぞましい始末で、批判者を疲れさえようとする戦術ではないか、とさえ思えてきます。
 

 「もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、
  からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
  もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、
  キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、
  あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、
  生かしてくださるであろう。」
  (ローマ人への手紙8章10~11節)

 
イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、と書いてあります。つまり、信仰があるなら、でしょう。そこを問題としているのに、同じ慢心と傲慢によって、聖句さえも返してくる彼なのです。この引用の少し前に、
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
8:3
律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。
8:4
これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
8:5
なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6
肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7
なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8
また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
 (ローマ8:3-8、新約聖書)
 
聖霊に導かれて、批判コメントに対して削除という強制力を発動したと言うのか。信仰に従って、隠蔽と偽装で見かけを繕ったというのか、神の意志で、他者の意見を殺し続けているというのか。余りにも見苦しい。肉の思いによって保身に走ったシャロームさん、それを全く悔いることのないシャロームさん、改める気持ちもないシャロームさん、いくらあがいても、言ったこと一つとして成り立っていないシャロームさん、今度は、これで、自分は分かっているが、神の恵みがないと分からない、聖霊体験がないから分からないのだ、とか言ってくるのだろうか。・・勝ち負けではなく、うっとうしい・・
 
 
(2017年01月13日、同日一部修正)