無恥と無知
 
 私は福音を恥とは思わない!
 2017/1/12(木) 午前 11:48
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27897281.html
 
 
誰か、福音は恥だなどと言ったのでしょうか。不気味です。私は、批判対象が言っていることは福音ではないと言っているのです。それとも、強意のつもりでしょうか。でも、読んでみると、実際は、前と同じことを繰り返し言って、しかも、どんどん乱れてゆくだけのようです。
 
>ローマ1:16~17ー私は福音を恥とは思わない!
>私は福音を恥とは思いません。
>福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、
>信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
>なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、
>その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。
>「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
 
彼は、福音を伝えてはいません。彼は、自己正当化の無罪信仰の言い逃れに、神の義を利用している冒涜者です。信じるすべての人にとって、救いを遠ざける彼自身のための欲の力です。何故なら、彼自身の言動に偽が明示されていて、その偽は、嘘に始まり偽善に進ませるからです。彼は、信仰は偽善によって生きる、と言い張っているのと同じです。
 
>福音は罪の奴隷からの解放を告げる神の力あることばなのである。
>それだけではない。さばきからの解放であり、義とされるのである。
>それを得る唯一の道は信じることなのだ。
 
あらゆる信仰者の資格を失っても、自身の欲と自尊の言葉を信じると言って聞かない彼は、信仰も思考も失って、まだ言おうとする、無反省の極み・・。彼は、罪の自覚ではなく、義でもなく、無神経を告げている。神の裁きも受けなくていいのだとさえ言っている。彼は、信じたら、悔い改めなくても救われるという、一回で完了する救いを騙る不埒者だ。しかも、その宣伝のために、聖書をとことん利用し悪用する。
 
>1コリント1:18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
>救いを受ける私たちには、神の力です。
> 
>福音の働きは救いをもたらす神の力であるよき知らせをすることである。
>ゆえに、私は福音を恥とは思いませんと言うのである。
 
彼は、福音ではないもののために、聖書を悪用しているのだから、彼の言説は、よき訪れ、どころか、命を滅ぼす不幸の手紙である。彼は、正常人なら、とっくに恥じて悔いているところだ。
 
>1コリント1:22~24ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
>しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
>ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
>しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、
>召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。?
>私たち人は神に背いたので罪に定められた。その罪には私たち人は無力なのである。
>解決することが出来ない。ペテロはそのために神が何をされたのかを
>声を大にして語ったのである。
>イエスの十字架の死と復活の出来事が私たちに救いをもたらしたと。
>人が救われるのは福音だけである。
 
彼は、聖句を人のために語るのに値しないと判断する。また、自分を除外した「私たち人は神に背いたので罪に定められた。その罪には私たち人は無力なのである。」などと、一見、罪を認めて、無力を認めたようなことを書いているが、その実、今も、反対者の意見を強制力で削除し続けている。これは、自分は無力ではないと言うのと同じである。彼は、誰よりも、いったい自分が、どう召されたのかを考えることが出来ない。行いにおいて既に神を裏切った者は、語れば語るほど福音に背く。
 
 (使徒行伝、口語訳)
2:36
だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
2:37
人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
2:38
すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
 (使徒2:36-38、新約聖書)
 
悔い改めなくても救われる、と主張する彼は、わざわざ墓穴を掘ることに定められているかのように、悔い改めなさい、と書いてある聖句から、その一部だけを載せている。
 
>ローマ3:23~24すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
>ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
>価なしに義と認められるのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
3:21しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 3:22それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
3:23すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
3:24
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
3:25神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
3:26
それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
3:27
すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 3:28わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
 (ローマ3:21―28、新約聖書)
 
彼は、常套句である、キリストの十字架の贖いを強調し、それで、すべて、救いが成った、自分は何もしなくてよい、罪の悔い改めもしなくてよい、と安心したいのでしょうが、それは、神に、彼が、悔いることもなく、罪を告白し祈ることもなく、彼の言説に従って、罪の見逃しを要求していることと同じです。彼は、救いを受ける以前の人の姿のようです。神は総てを見ておられるのだから、いつまでも神が見逃し続けるわけではないでしょう。
 
神の前に無恥であってはいけません。自分を見て、神の前に無知を認める自覚が大切です。
 
義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのだから、神の救いの福音に対して、人からの反応が信仰なのでしょう。彼は、まともな反応をしないで、反対者を平気で葬ることを信仰としてきた者です。
 
>罪は神に対する背きであるから、神は許されない。
>しかし、人へのあわれみのゆえにイエスにあって、神が福音を備えたのである。
>私たち誰でもが価なしに受け取るためである。
 
彼は、あわれみのゆえに、と書いて、なにゆえの、あわれみかを書かない。前にも書いたと思うが、神が人を憐れむのは、人が、魂を砕かれ、いかなる強制力も失って、弱くなり、この地上で助けとなるものを持たず、神以外に寄る辺がないと認めるからです。それが祈りなのです。
 
彼は、未だに、偽善と隠蔽を続行しており、強制力を行使し続けており、自分が強いつもりで、今も、こうして、言い訳と言い逃れのために、我を張って、あがいているのです。彼は、弱さを認めていません。認めているなら、行いに表れるからです。
 
>ローマ10:14
>しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。
>聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。
>宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
 
宣べ伝える人は必要です。しかし、宣べ伝える人が偽善者であって、偽善を施し、その言い逃れに、この世の欲と知恵を用い、他者の意見を封殺するような者であってはいけないのです。彼は、彼の偽善のために、宣べ伝える資格を失い、さらに、言い逃れを続けているので、福音を受け取る機会さえも逃しているのです。彼の特殊なひいき筋以外、誰も、彼などに、宣べ伝えてほしいとは思わないでしょうし、彼の語る福音は、駄弁と詭弁の、灰と塵に堕してしまいました。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:14
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
 (ローマ10:14―17、新約聖書)
 
彼は、キリストの言葉について、自分と異なる解釈を許さず、全く聞こうとしません。彼という人の思いの中に、こびりついている固い遺残物だけを、いつも削っては持ち出し、求められてもいないのに、繰り返し表面をなぞるだけで自己満足するのです。だから、今も、このように、聖句を持ち出して、偽善に染まっている自分を、なおも、宣べ伝える者の麗しさをもって伝える者として、慢心しているのです。聖句をよく読むだけでも、彼が信仰の本質から外れていることが明らかになるでしょう。彼は、キリストの言葉を語りましたか。いえ、とんでもない、彼は、自説にキリストの言葉を貼り付けているだけです。キリストの言葉は、生ける神の言葉です。彼の石膏細工の、脆く崩れた残骸ではないのです。
 
宣べ伝える人に誠意がなく悪意があって、ずっと誤魔化していて、言い逃ればかりで、この世の名誉に執着して、事実と反する綺麗ごとばかり並べていて、悔いることも改めることもない偽善者であるなら、どうして、どうして、彼に会ってよかったと思えるでしょう。どうして、感謝して福音を喜ぶことが出来るでしょう。彼は、福音と偽って、常時安楽訂正不能人間を作る教えを広めようとしているのです。罪を知らず、恥を知らず、偽善を認めず、人の意見を聞かず、なのに、自分の言うことを聞け、福音だから、と言う。福音に反することを述べている彼は、悔い改めることが出来ないなら、黙るべきです。いつまで、ごまかそうとするつもりですか。
 
>ローマ10:14
>しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。
>聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。
>宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
 
宣べ伝える人が嘘つきで、どうして聞くことができるでしょう。
正直でない人が偉そうに話すのを、どうして信じることが出来るでしょう。
間違って信じたことを、どうして信仰と呼べるでしょう。
 
神の前に無恥であってはいけません。自分を見て、神の前に無知である自覚が大切です。
 
 
(2017年01月14日、同日一部修正)